2013年8月27日火曜日

ドロミテ

 お盆休みが終わり、他県ナンバーの車が消えると、雨が降り、急に涼しくなった。晴れると陽射しは強いけれど風は気持ちよく、その冷たい風に吹かれていると、北イタリアのアルプスの山々と色とりどりの花を想う。2013年7月15日、南チロルのボルツァーノからオーストリア・クラーゲンフルトへ、ドロミテの山々を愛でながらドライブした。
 ドロミテをウィキペディアで見ると、「ドロミーティ(イタリア語:Dolomiti)は、イタリア北東部にある山地で、東アルプスの一部、ドロミテなどと表記される」とある。またドロミーティは1997年ユネスコ世界自然遺産に登録されており、「世界遺産」という標識を山道のあちこちで見かけた。

そろそろアルプスの雰囲気



 ボルツァーノから小一時間ほど走ると、ドロミテの山々が壮大かつ奇怪な山容を現す。山の名前は知らないけれど、多分有名なのだろう。トレッキングをする人を大勢見かける。 
 道から少し入ったところに車を停め、花を写しに出ると、その空気の冷たさ、爽やかさに驚いた。車内はエアコンを止めていてちょうどよかったが、外の空気がこれほど冷たいとは思わなかった。








  一面草原に見える場所も、近づくと小さな花々でびっしり覆われている。特別な花もあるのだろうけれど、花の咲いている場所に囲いがあって「立ち入り禁止」なんていうことはしていないから、普通の花かしら。それとも誰も取っていったりしないから囲いなどという醜いものが存在しないのかも知れない。





  お昼になり、途中の村のレストランで食事休憩。ちょうどお昼時だったので、村役場や銀行勤めの人らしき地元のお客さんで賑わっていた。南チロルはイタリア語でもドイツ語でもOKなのだが、このレストランのウエイトレスは大声で英語をしゃべるので、そのたびにお客さんが一斉にこちらを向き、少々恥ずかしかった。その人と姉妹らしきもう一人のウエイトレスも大女、「まるで大きな魔女みたいだったね」と、魔女に聞こえると怖いから、後になって娘とヒソヒソ話をした。料理はビーツを練り込んだラビオリを選んだ。ケシの実入りのバターソースで和えてあり、甘くて不思議な味がしたが、美味しかった。



コルティナ・ダンペッツオを通過

  コルティナ・ダンペッツオで冬期オリンピックを開催したのは1956年、猪谷千春が回転競技で2位に入って日本初の冬期オリンピックのメダルを取った。それに何と言ってもトニー・ザイラーの活躍が素晴らしかった。回転、大回転、滑降で全部金メダルを史上初めて獲得。彼の出演した映画は全て見た、今でも「リラの花咲く頃」という歌を懐かしく想う。
 コルティナ・ダンペッツオを過ぎると森林地帯に入り、「鹿に注意」の標識がやたらに目につく。そこに描かれている鹿の姿が軽やかでよいと、なぜか一生懸命に標識の写真を撮っている人が車内にいた。そのうちになだらかな風景になりオーストリアに入った。

2013年8月16日金曜日

ポッツォレンゴで

ナディアとジルベルト

デラコルテの部屋のドア飾り

 B&B della Corte の経営者、「マイハズバンド」の名前はナディア。自分のワイフを「マイハズバンド」と言ったオッサンはジルベルト。宿の隣りのマンションに住んでいる。我々が到着した時は、恐らく昼寝の最中だったのではないかと思う。かなり暑い昼下がりだったし、思い出せば二人とも寝起きの慌て方(ボケ具合?)だった。彼らとの出会いの場面は“大騒ぎ”の一言でしか言い表せないが、きっといつまでも忘れられない思い出になると思う。

コルテ・デイ・レオーネの中庭


 B&Bデラ コルテは、マラヴァジワイナリーのエドアルドが予約してくれたので安心してしまい、ホームページをちょっと確認しただけで、どんなところか事前にしっかりチェックしていなかった。とにかく、ポッツォレンゴでの目的はマラヴァジワイナリーを訪問することだったから。 www.bebdellacorte.com 
 
さあ、朝ごはん
ナディアのケーキ  
朝食のサラメ(サラミ)

 デラ コルテのサイトで最初に女主人の写真をチラッと見た時、何やら太めで賑やかな農家のオバサンと思い込んでしまったのがいけなかった。実際のナディアは言葉少なめで、いつもニコニコしている可愛い上品な人で、スタイル抜群(ナイスバディ!)。彼女はいつもハイヒールの突っかけを履いていたが、「時々つまづいてクネッとしていたよ」と娘が喜んでいた。そのハイヒールの突っかけを履いて、毎朝おいしい朝食を作ってくれた。コンチネンタルブレックファーストというものの、パンは数種類、地元の生ハムやサラミ、チーズ、果物、お手製のケーキが3〜4種類も並んでいた。コーヒーも美味しかったし、カプチーノは絶品。カプチーノを注文すると、ミルクを泡立てる音がする。その音は「今作っていますよ」というような心地よい音。懸命に作っているのを、のぞきに行くなどという下品なことはせず、毎朝その音を聴きながらパンに上等なハチミツを塗り、静かに出来上がるのを待っていた。

ナディア

 滞在3日目の土曜日の朝、今からヴェネツィアに行くと話したら、ナディアが「車で行くのはよして、電車で行った方がいいわよ」とアドバイスしてくれた。(ナディアは英語はできないが、娘曰く、ジルベルトと英語で話すよりも、ナディアと怪しげなイタリア語で話したほうがよっぽど通じるという。勘のいいナディアのほうが、やはり“ハズバンド(主人)”なのだろうか)ナディアは「夏で土曜日だから大渋滞間違いなし、ヴェネツィアの広い駐車場を歩いてヴァポレット(水上バス)に乗りに行くのも大変だ。私たちもヴェネツィアへはいつも電車で行く」とのこと。ローマ広場にある駐車場の広さと入るまでの混雑を思い、そして列車でヴェネツィアに入るワクワク感を思い出し、我々はすぐナディアの言う通りにすることに決めた。


デセンツァーノ駅



 ミラノ―ヴェネツィア間の特急が停車するデセンツァーノ駅までは車で10分だし、土曜日だから駅に楽に駐車できるという。「じゃ、9時の特急に間に合いそうだから」と急いで支度をして出かけようとすると、ジルベルトがプリントアウトした紙をヒラヒラさせて母屋からやってきた。「9時の電車はもう満員だ。次は10時だ」と言う。ナディアから話を聞いて、すぐにインターネットで電車の混み具合をチェックしてくれたのだ。おっちょこちょいな人だと思っていたが、実は何でも真面目にする人らしい。まだ時間があるので一旦部屋に戻ったものの、ここで待つよりも早めに駅まで行ってみようということになり、すぐ出かけた。デセンツァーノは閑静な住宅街で、ミラノに通勤する人たちが住んでいるようだ。駅までは10分どころか20分はかかったが、迷う事なく駅駐車場に車を停めた。切符を買いに行ったら、10時の電車は売り切れという。じゃ、一等車はどう?バラバラなら3席ある、と言うのでそれに決定。それから30分以上待つことになったが、ホームは人でいっぱい。そうだ、帰りの切符も買っておこう。再び切符を買う列に並んで、帰りの切符も無事手に入れた。列と書いたものの、あっという間に順番が回ってきた。「オーストリアじゃ、こうはいかない」と、イタリア贔屓の娘は変なところに感心していた。

ガルダ湖が光っていた
3階の窓からのコルテ・デイ・レオーニ

 この日のヴェネツィア行きは、ナディアとジルベルトのおかげで楽に往復できて、よい思い出となった。ジルベルトは4日目、出立の朝に母屋のマンションを指して「Corte del Leone、英語で言うとライオンズコートだよ」と説明しながら、そちらの方へ案内してくれた。母屋の庭はナディアが2日目の朝に案内してくれたので、大きなプールがあったり、キョウチクトウの花が見事だったりするのを知っていたが、自分たちの住居まで見せてくれるとは。彼らの部屋は建物の最上階3階にあり、窓からは遠くにガルダ湖が見えた。家具が素晴らしく、「これとこれは18世紀のもの、これはプロヴァンスで見つけたもの」「壁のフレスコ画は修復して額のようにした。泊まった部屋にも似たようなのがあったでしょう」とジルベルト。階段は昔のままの石段だった。デラ コルテのサイトには、古いファームハウスを改装したとあったので、ただの大きな農家だと思っていたが、恐らく普通の農家ではなく、地主か領主の家だったのだろう。

ナディアの花

 ジルベルトとナディアはマントヴァの出身だという。別れの朝、これから南チロルのボルツァーノへ行くと言ったら、ボルツァーノは近いから、その前に是非マントヴァを見るようにと薦められた。ルネサンス君主の一人であるゴンザーガの町であり、オペラ「リゴレット」の舞台となった町、しかもジルベルトたちの町、マントヴァに魅力を感じたので、南に60kmほど寄り道をしてから北に向かうことにした。北イタリアについてはフィレンツェ、ミラノ、ヴェローナ、フェラーラ、マントヴァなど、ルネサンスの花が開いた都市という程度の知識しかなかった私は、北イタリアの人々の上品さ、教養の高さに自分の無知を恥じた。ルネサンスはもとより、イタリア統一の地となったこの一帯のことを調べなくてはと反省した。
 ちなみに、ジルベルトは最後までナディアのことを「マイハズバンド」と言っていた。

マントヴァ 
マントヴァ


2013年8月15日木曜日

いざ ポッツォレンゴへ

   
   スイス側からカートレインに乗り込む
トンネルを出てるとイタリア!

マッジョーレ湖のながめ 
ホテル・ラ・パルマ

 2013年7月10日(木)、シンプロン峠をカートレインで越え、イタリア・マッジョーレ湖畔のストレーザに宿泊。選んだホテル・ラ・パルマはミシュラン二つ星で、眺めがよく、優雅に一晩を過ごした。翌日はアウトストラーダでミラノを横目で見ながら、いよいよポッツォレンゴへ。その途中、モンツァのサーキットに立ち寄り、スターリング・モスの銅像に敬意を評してきた。イベントのない日だったので静まり返っていたが、モータースポーツファンらしき人がちらほらいた。この強烈な陽射しの中、ガラガラのサーキットをわざわざ見に来る物好きもいるもんだ、などと思いながらもモスの銅像の写真を撮っていると、近くをぶらぶらしていた英国人らしきオッサンが「ハロー」と、うれしそうに手を降ってきた。自分たちと同類だと思ったらしい。また、ミッレミリアのスタートポイントであるブレシアの町の様子も見に行った。ミッレミリアは、ブレシアからローマまで1000kmを走るクラシックカーのラリーだ。


スターリング・モスとモンツァにて

 ポッツォレンゴへ行くには、アウトストラーダA4をシルミオーネ出口で降りる。ブレシアからは約50kmだ。一般道に入って小さな村を過ぎ、のんびりした田舎道を走っていたら「ストラーダ デイ ヴィーニ」という標識があった。気がつくと、道の両側はブドウ畑が広がっている。まさしく「ワイン街道」。「すごい、ワイン街道なんだ!」と騒ぐ。ナビはチェックしていた地図のとおりに誘導してくれ、目的のワイナリー「マラヴァジ」の看板のところで曲がると「ここが目的地です」とのこと。マラヴァジのエドが予約をしてくれた"B&Bデラコルテ"の前で停まった。

デラコルテの入り口

コルテ デイ レオーニの門

デラコルテ前のブドウ畑
 インターフォンを押してしばらくすると、男性の声で「今日泊まるの?」と。「そうです。」「すぐ行くから、ちょっと待ってて。」建物のドアが開くかと思っていたら、建物横にある大きな門が開いて、シャツをズボンに突っ込みながら初老のオッサンが出て来た。「今日泊まるのね、いいですよ。」そりゃいいでしょう、予約してあったんだから。「今夜、一泊?」とオッサン。ちょっと心配になって「(???)マラヴァジから予約が入っていると思いますが、3泊です。」と言うと、「3泊?!今、マイハズバンド(my husband)がすぐ来るから、マイハズバンドが来たらわかるから!」
 しばらくすると、見よ、美人のマイハズバンド(?)が現れた!「アー!今日は11日だった。今朝、宿泊の予定表をチェックしなかったわ!ハイハイ、お泊まりの予約は入っています。こちらにどうぞ。」(彼女はイタリア語でしゃべっていたが、その時は言っていることが不思議と分かった!)マイハズバンドは、2階の黄色で統一した可愛い部屋に案内してくれた。彼女がもう一人分のベッドメーキングを始めたので、階下に降りて、オッサンに「何処か近くのレストランを教えてください」と訊ねた。「ニクがいいか、サカナがいいか」とオッサン。「いや〜、別にどちらでもいいです。」オッサンは「ここ肉料理だけだけど、この地方料理の店でトーレ(塔)の下にある。ここは肉も魚も、キ、キチン、ポロもあって(チキンと言いたかったらしい)、ボリューム満点で美味しいけど、店内の趣味は悪い。この店はビールとピッツァが美味しいけど、ちょっと騒がしい」などとまくしたてながら、それぞれの店のカードをくれた。部屋のチェックを終えて2階から降りてきたマイハズバンドが、娘にイタリア語で「このお店は農家レストラン。アグリツーリズモ。地産地消で美味しいの。おすすめのレストランだけど、道順はややこしくて説明できない。あー、ナビがあるなら、大丈夫」と教えてくれた。他にも「美味しいけれど高いお店」というおしゃれなレストランなどを紹介してくれた。さすが、マイハズバンド。貴重な情報をありがとう。

右がオッサン
右がマイハズバンド
  部屋に落ち着いて、娘と顔を見合わせた瞬間「MY HUSBAND!」と二人で同時に叫び、その途端に笑い転げた。笑いは止まらなくて、二人ともお腹が痛くなるほど笑い、転げ回った。「マイハズバンド」と聞いて、娘は本当に男性が出てくると思ったらしい。今はそういう時代なのかしら?ウィーンでゲイパレードの見過ぎに違いない、と私は思った。私はオッサンが英語で「マイワイフ」と「マイハズバンド」を言い間違えているのだとわかったが、必死で英語を話すあの時のオッサンの顔を見て、笑えなかった。それからというもの、「マイハズバンド」を思い出すたびにクックックっと笑い出してしまう。その笑いは質が悪く、始まると止まらない。今でも夜中に「マイハズバンド」を思い出すと、ひとしきりクックックが始まる始末。(つづく)

2013年8月11日日曜日

富士見の夏

 
2013年8月3日の八ヶ岳

 交通量が少ないのに無理矢理造られた長野県富士見町立沢大橋のために、ジャックナイフで切り裂いたような風景となっている八ヶ岳を写しました。ここは私のお気に入り八ヶ岳撮影ポイントだったところです。十数年前のある夏の日に橋脚が立っているのを見た時は、ひどい自然破壊にハラワタが煮えくり返りました。橋がなかった頃、緑の森から続く八ヶ岳の眺めはといえば、それは素晴らしいものでした。
 今回写真を撮った日は、八ヶ岳の麓まで緑一色で、稜線もくっきりしていました。しばらく見ていると、「青い山脈」という歌を叔父たちがよく歌っていたのを思い出しました。父は「青い山脈は八ヶ岳だ」と言っていましたが、ウィキペディアで歌のことを調べたところ、作曲者の服部良一は「日本晴れのはるか彼方に、くっきりと描く六甲山脈の連峰を見ているうちに曲想がわいてきた」のだそうです。また、原作者の石坂洋次郎は東北地方の港町を舞台に小説を書いたので、八ヶ岳とは全く関係のない「青い山脈」でした。でも、六甲山は私の青春の山並み「青い山脈」なので、六甲山脈を見て服部良一が曲想を得ていたとは、うれしい発見でした。

青い畑
立沢のハーブ畑

 立沢大橋ができるという時、「住民にとって必要な橋なの」といきさつを訊いたら、「出来レースだった」と答えた人がいました。地元の情報にくわしい北原さんです。その北原さんのハーブ畑を久しぶりに見に行くと、ドライフラワーにする花はまだ咲いてなくて、青い山脈ならず青い畑でした。



 富士見商店街はシャッター街ですが、どうにか活性化したいと、いつも奮闘しているギャラリもろずみ鉄木堂の店主は、この夏「ふじみミュージックストリート」を立ち上げました。8月10日の夕方にのぞきに行くと、店主自ら「ルート66」を熱唱していました。                   「ガンバレ!」


 一ヶ月留守にしていた庭は、ぼうぼうになっていましたが、やっと整えました。アナベルは終わりましたが、アズマギクは見頃です。おのれ生えのワイルドホスタ(ギボウシ)は毎年増えて、あちこちで小さな花を咲かせています。ヤマアジサイもこれからです。こう見ていると我が庭は紫系なので、「花の小道」(花苗屋さん)で紫系の花を選び、寄せ植えにしました。