2013年1月30日水曜日

ヴィーレンドルフのビーナス失踪事件

 ヴィーレンドルフのビーナスとは、今から約25000年前(旧石器時代)に作られた小さな石の女性像のことです。1908年8月7日、ドナウ川に沿って広がるオーストリアのバッハウ渓谷にあるヴィーレンドルフの遺跡を発掘中に、完全な形で出土しました。


 この像の大きさは11cmで、ライムストーンをフリントで彫ったものです。もともとは赤いベンガラでコーティングされていました。赤という色は、氷河期に生きた人々にとっては生命 • 死 • 再生のシンボルであったようです。小さな像なのに、細部は丹念に掘られています。細い腕にはギザギザ模様の腕輪をはめ、ふくよかな胸の上に腕は置かれています。手の込んだヘアスタイルをしているのでしょうか?それとも編んだ帽子を被っているのでしょうか?よく分かりませんが、ビーナスはその頭を下げ、軽く俯いているので、顔の表情ははっきりしません。




 フランスからロシアにかけて出土された旧石器時代の小像は、どれも女性像で、顔と足はなく、両腕も簡略化され、ヴィーレンドルフのビーナスに似通っています。顔が表現されていないのは、個を超えた存在を示しており、普遍的メッセージを持つ者をイメージしているようです。そのメッセージとは何か、現代に住む私たちには永遠の謎です。



 「ヴィーレンドルフのビーナス」と名付けられた小さな女性像は、ウィーンの自然史博物館に展示されています。久しぶりに彼女に会いたくて、2013年1月14日に雪の中を出かけました。ウィーンのインフラ整備は博物館にも及び、案内板や展示方法が進化していました。ビーナスを探してショーケースを覗き込みましたが • • • いません!しかし、いないのは当然、いつの間にか彼女専用の特別キャビネットが作られ、その暗い小部屋の真ん中に鎮座ましましていました。館内の写真撮影は、フラッシュさえ焚かなければお咎めなしなので、撮り放題。









ビーナスと記念写真

 ヴィーレンドルフのビーナスに会った後は、アイスマン「エッツイ」や小さい石像などを見て、館内カフェでメランジュを飲んで一休みしました。

エッツイの想像図
ミュージアムショップで『自然史博物館TOP100』という本と、ヴィーレンドルフのビーナスの銀製ピアスを見つけて買い求めました。それこそ小さなビーナスだけど、耳たぶにプラプラさせたら可愛いこと間違いなし、意気揚々と博物館を後にしました。

 帰国して荷物の片付けを終え、さあ、ビーナスをと袋を開けたら、ジャーン!ない…無い…ナーイ!ビーナスが一個しかない!!!超ガッカリ。
早速ウィーンにスカイプし、「ビーナスの片方をそこの部屋に落としてきたかも、探して」と訴えました。しかし、どうもないらしい • • •。ピアスを片方だけするのも格好いいかもと考え始めていたら、「体長1cmの銀のビーナスが出土」とウィーンからメールが届きました。
もう一つのビーナスは在ウィーン
参考       :「自然史博物館TOP100」、館内の説明文など
ライムストーン:砂岩のこと。堆積岩(サンゴ礁など、石灰質の生物の遺骸が堆積してで        きた)の石灰岩 細工しやすい石だがウロコ状に剥がれやすい
フリント: チャート(堆積岩)石を加工する道具として使われた


2013年1月19日土曜日

大雪のウィーン

通りの景色
 「今年は暖冬みたいね」などと言っていましたが、年が明けてしばらくすると、雪がチラチラし始めました。そして昨日(17日)にはドカッと30㎝も積もり、ウィーン中アタフタ、トラムもバスもダイヤは大乱れ、町は帰宅難民であふれていました。空港も麻痺状態、テレビでは「Schneechaos(雪で混乱)」と題して、市民が右往左往する映像を流していました。ウィンタースポーツが盛んで、雪に慣れているはずのウィーンなのに、雪が積もると最初の日は毎年大騒ぎになるそうです。
 交通機関といえば、ウィーン・シュヴェヒャト空港も新しくなり、2年ぶりに降り立った時には驚きました。新装オープンしたものの、使い勝手が悪く、利用者には大変評判が悪いとのことです(明日(19日)は飛び立つ日なので、その使い心地を検証しようと思います)。空港だけでなく、鉄道の主要駅も改装されました。また、地下鉄の路線が延長され、バス・トラムの車両のバリアフリー化が進んで乗り降りしやすくなり、オーストリアではこの10年間で老朽化した社会インフラの整備が着々と進んでいるのがよく分かりました。日本も新しい道路や鉄道路線を作るのはこのあたりで止めて、老朽化した社会インフラの更新に力を入れるべきだと改めて感じました。

中庭のスノーマン
シュテファン大聖堂前のフィアカー
ウィーンといえばカフェ文化などと言われますが、今回はカフェに入ってガッカリしました。メランジュと呼ばれるウィーンコーヒーの代名詞であるミルク入りコーヒーは、ちっとも美味しくありませんでした。お気に入りのカフェ・ラントマンではメランジュの器がエスプレッソのように小さく、たっぷり飲むウィーン風のメランジュではありません。しかも、他のカフェと比べて1ユーロ以上高い値段です。ラントマンは東京・青山のAOビルに出店していますが、どうしてこうなったのと失望しました。
カフェ・ラントマン
美術史博物館内のカフェの天井
コンディトライのショーケース
コーヒーより安い飲み物はワイン!カフェに行くのはもう止めて、夕方になるとホイリゲに行ったり、ケラーに潜り込んだりしました。

ホイリゲの店内
ケラーの店内
ホイリゲの大好物の料理で満足

2013年1月18日金曜日

ウィーンあれこれ

国立オペラ座で

国立オペラ座
緞帳は気に入らない
席はボックス席
カーテンコール
オペラは「薔薇の騎士」を観ました。張込んで2階ボックス席を取ったので、優雅に観劇。


とっさの会話は母語で!

ドナウタワー
国連を望む
 ウィーンで見晴らしのよい場所はカーレンベルグの丘ですが、寒いから行きたくないので、ドナウタワーに行きました。日本風に駅のすぐそばにあると思いきや、ドナウタワーは広い広い公園の真ん中にポツンと建っており、ひたすらテクテク歩きたどり着きました。腹の立つことにこの寒い時期、観光客が大勢いて、何と40分待ち!やっとエレベーターに乗ったら、「速いエレベーターです」と係のお兄さんが威張ってしゃべりまくる。「東京に行ったら、こんなの普通だ」と小さな声で悪態をつきました。
何かあると日本語で言うのが一番ワカル、というのが今回の旅での感想です。ザルツブルグ行きの列車に乗ろうとした時、2才くらいの小さな子どもがホームをチョコチョコと走ってきて先に乗ろうとしました。ホームと列車の間隔が空いていて危ないので、私はおもわずその子を制止しようと手を出したら、おばさんが飛んできてその子を列車に乗せ込みました。「危ないやん!」と叫んだら、そのおばさんは「Not for me!」と意味不明の英語で言い訳していました。どうやらおばさんは私が叫んだ日本語を理解したようでした。また、別の時に本屋で大きなオッサンがぶつかってきました。「なんやの!」とワタシ。「Entschuldigugn!」とオッサンはちゃんと謝ってくれました。
 英語は世界共通語とのたまう人もいますが、母語がどこでも一番通じるようです。


トラムの事故現場で


 ウィーン市内をトラム(路面電車)で移動していた時のことです。降りる停留所のすぐ手前の信号で、路面が凍ってもいないのにスマートがゆるゆるドン!と電車に突っ込んできました。横に座っていたおばさんが、大事そうに抱えていたテイクアウトのピザの箱をストンと落とし、こっちを見て「あら〜」というような顔をしました。運転手が運転席からやっこらさと出てきて、「みんな大丈夫?」「はい」と反応の鈍い乗客たち。運転手はもう一度大きな声で「大丈夫かい」と訊ねると、今度はみんなで「はーい!」とりあえず安心した様子で、若い運転手は様子を見るために電車を降りました。降りようとしていた停留所の手前だからと私たちも降りて、現場を見ると、スマートはトラムにキスをしたような状態でした。双方とも大したことなくよかった!

2013年1月17日木曜日

チェスキー・クルムロフ

 「何処かにドライブに行きましょう」ドライブ好きな私には、うれしいお誘いを受けました。ウィーン郊外のクロスター・ノイブルグやマイヤーリンクなど、近場に連れて行っていただこうと思っていたので、200キロもある「チェスキー・クルムノフ」は想定外の場所でした。近年、東欧旅行に行った友人たちから「ウィーンに行ってるのなら、チェスキー・クルムノフはもちろん行ったことあるでしょ? 世界遺産だし」と幾度となく聞かれ、その都度「行ったことないわ」と答えなければならず、「何が世界遺産よ、世界遺産はそこらにいっぱいあるわ〜」などとひがんでいました。


 雨のウィーンを朝8時半過ぎに出発、高速に乗ってしばらくすると雪になり、さらに吹雪いてきました。「チェスキー・クルムノフは寒いよ、普段より一枚多く着て行かないといけない」と前の晩にオーストリア人の友人から注意されたのを思い出していました。運転してくださった方は外国生活が長く、スキーがお好きなので、雪道の運転の心配は全くしませんでした。でも吹雪のチェスキー・クルムノフは感心しないので、車中ずっと現地の天気を心配していました。
 ウィーン西部ドナウ河畔の町クレムスで高速を降りると、丘陵地帯が続きます。アップ&ダウンのドライブを楽しんでいると、大きな樅の木の森林地帯に入りました。クリスマス用の小さな樅の木も植わっています。小さな村々を通過するたびに、黄色、緑、青と、色とりどりに塗られた家々の壁を見ては「雪によく似合って美しい!」と同乗者みんなでワイワイ話しているうちに、ふと、雪が止んでいるのに気がつきました。しばらくすると雲間に青空も見えました。青空はチェコに入ると日差しに変わりました。光いっぱいのチェスキー・クルムロフが見えて来た時には、「奇跡のよう!」思わず歓声をあげました。


 クルマを町の入口に停めて、「さあ、町へ」! しかし、冷たさはかなりのもので、ニット帽を被って歩き出しました。



 まず、町の広場のインフォメーションに立ち寄って地図をもらい、ランチを取ろうとおすすめのレストランを聞きました。12時を過ぎていたので、とりあえずそのレストランを探して入りました。ブリキの看板が壁一面に飾られたレトロな雰囲気のレストランです。注文したキャベツのスープは、やや酸味の効いた美味しいスープでした。メインにはダンプリング二種が付け合わせの骨付き鴨肉と、ハッシュドポテトのようなジャガイモ料理を一皿ずつ取りました。いずれもボリュームがあったので、3人で分けて丁度よい量でした。

レストラン店内
ランチを食べたレストラン

 食後、クルムロフ城の塔に登るために歩き出しました。ブルタバ(モルダウ)川が町の中をクネクネ曲がりながら流れているので、城へ行くには橋を渡って行きます。橋はすぐそこなのに、行くまでに少々時間がかかりました。中世の町中には可愛らしい店が並んでいて、ついつい覗いてしまったからです。そんな中、バッグをたくさんぶら下げいる店がありました。娘がトリコロールカラーのバッグに惹かれ、一緒に店に入ると、愛想のよい店のおばさんが一生懸命に英語で気を引こうとします。「セールだからコルナならこの値段、ユーロならこの値段」と大きな電卓をカチャカチャいわせます。それを聞きながら店内を見ていると、ふとグリーングレーのバッグが目に入りました。すると、おばさんはすかさずそのバッグを手に取り、ジッパーがここに、ここにもとバッグを開けてみせます。今回案内してくださった方はお買い物上手で「負けてもらえそうよ」とアドバイスがありました。「二つ買うから負けてよ」「それはちょっと、できない・・・」負けてもらうにはタイミングが大切、おばさんが電卓を叩いて「二つで160ユーロ」と言うから、「150ユーロ」とすかさず言い返すと、しょうがないという様子でOK。

 バッグを二つも手に入れ、次は「エゴン・シーレ・アートセンター」に行きました。エゴン・シーレは夭折したオーストリアの天才画家として知られています。チェスキー・クルムノフは彼の母親の故郷ということでアートセンターがありますが、シーレの作品を最多収蔵しているのは、ウィーンのレオポルド美術館です。チェスキー・クルムロフに来る途中に通過したトゥルン・アン・デア・ドナウ(オーストリア)はシーレの生誕地で、そこにも立派な美術館があるそうです。残念ながら美術館は冬の間はお休みということ、美術館ショップだけ開いていました。ショップで彼の写真を見ながら、ジェームス・ディーンに似ているなと想いました。面影だけでなく生き方も似ています。ジミーは24才の時、ポルシェ550スパイダーで事故死し、シーレはスペイン風邪の大流行の時に28才で亡くなりました。




















 そうこうしながらやっと城の門をくぐり、城内へ。冬期で城内見学はできませんでしたが、塔には登れました。塔からの眺め!寒いけど、wunderbar!




 観光シーズンは人であふれ返っている城下町も冬は歩きやすく、店屋を覗きながらゆっくり歩きました。チェコで産出される緑色の天然ガラス"モルダバイト"とボヘミアンガーネットを売る貴金属店や骨董品屋がたくさん並んでいます。娘は記念にと、モルダバイトとガーネットの小さな指輪を買い求めました。









 ウィーンへ帰る道は、プリウスのナビで行きとは違うルートを走りました。この道もアップ&ダウンのワインディングロード、しかも急な坂道の雪は凍り始めていました。ウィーンに着いたのは6時半過ぎで、すっかり暗くなっていました。心に残るチェスキー・クルムロフ。オーストリア北西部と南ボヘミアへの大遠征の自動車旅行でした。


 南ボヘミアにあるチェスキー・クルムロフは、13世紀に城と町が造られ、手工業と地の利を活かした交易で栄えた中世の町がそのまま残っている美しい町、と観光ガイドには書いてあります。しかし、中世の城下町がそっくり残された背景には、19世紀から20世紀にかけて町が味わった辛苦があったのです。産業革命から取り残され、第一次大戦の後はハプスブルグ帝国から独立したものの、ドイツ系とチェコ系の民族間の緊張が続きました。その後、ナチスドイツによる併合で町が破壊され、第二次大戦後は共産主義による伝統文化否定によって町は荒廃しました。1960年のプラハの春以降は次第に歴史的建造物の補修が行われるようになり、1989年のビロード革命後は町の景観が再認識され、1992年に世界遺産となりました。

2013年1月8日火曜日

ザルツブルグへ

ホーエンザルツブルグ城塞方面
 ザルツブルグに近いフェクラブルックという町の知人宅を訪問することになり、よい機会だからと、ちょっと足を延ばしてザルツブルグに一泊することにしました。今回で三度目のザルツブルグですが、まだクリスマスの雰囲気が残る街と背景の雪山に、あらためて美しい町だと感じました。
ザルツァッハ川沿いに建つホテルザッハー
 ザルツブルグへは、ウィーン西駅から特急で約2時間半の旅です。2年前にウィーンへ来た時は、88歳の母と一緒だったのでタクシーばかり使い、気がつきませんでしたが、ウィーンの主要駅はどこもここもきれいになっていました。オーストリアの交通機関全般が近代的になっていて、列車もピッとボタンを押すだけでドアが開きますし、市電やバスも低床車が増え、乗り降りしやすくなっています。30年ほど前、神戸のお饅頭屋のおかみさんがスイス旅行中に当時手動だった列車の乗降ドアを誤って開けてしまい、電車から転落したことがありましたが、今はもう外へ転げ落ちる心配は皆無と安心しました。

 ザルツブルグ駅も見違えるほどきれいになっていました。駅からはトロリーバスでザルツブルグ旧市街へ。繁華街ゲトライデガッセの入口にあるお気に入りの宿ゴールデナーヒルシュ(金の鹿)に荷物を置きに行くと、チェックイン時間前なのに部屋の用意が出来ていると案内してくれました。

ゴールデナーヒルシュ
チロル風の家具が置かれた部屋









 ランチは見晴らしのよいM32というカフェレストランに行くことにしました。M32はメンヒスベルグ丘の近代美術館内にあるため、岩の中を通るエレベーター(片道2.10ユーロ)を使って上がります。メンヒスベルグ丘はホーエンザルツブルグ城塞の向いにあり、大聖堂、司教の居住するレジデンツ、ザルツァッハ川、ホテルザッハー、ミラベル公園も見えます。まさにザルツブルグ随一の観光スポットだと、うれしくなりました。10年前はまだこれほど整備されていなかったように思います。     

iPhoneで写したパノラマ写真
 M32の店内は、天井から大きな鹿の角がたくさんぶら下がっていて、圧倒されました。うちの庭を駆け回る鹿の角で同じような照明器具を作りたいなあと思いましたが、角はこれより小さいし、家にはそぐわないと、すぐあきらめました。        

天井の鹿角シャンデリア
芸術的な逆さクリスマスツリー
 ランチにはカルプスボイシェル(仔牛の肺と心臓をクリームで煮た料理)をいただきました。キッドニーパイやブラックソーセージが好きな人の勧めなので、本当に美味しいのかなと恐る恐る食べ始めましたが、見た目もグッド、食べても超美味なので、お気に入りメニューの中にすぐ仲間入りしました。                      

モーツァルトの生家

 帰りも洞窟エレベーターに乗って下り、ゲトライデガッセをブラブラすることにしました。ゲトライデガッセの人の多さはすごい、これは何、渋谷駅前のスクランブル交差点のようです。しかも、観光客の団体が立ち止まってガイドの説明を聞くのが邪魔で仕方ないので、裏道へ回ってレジデンツ広場へ急ぎました。そこで1705年創業のカフェ・トマセッリへ入ろうとしたら満員で、仕方なく諦めて引き返しました。人にぶつかりそうになりながらモーツアルト生家までゲトライデガッセを歩き、その斜め前にある小さなカフェレストラン・オイレンシュピーゲルに入ると、ちょうど出ていく人がいたので、空いた席にどっかり座り、ゲシュプリツターというワインの水割り(ワイン割りの水?)で喉の乾きをうるおしました。
カフェ オイレンシュピーゲル。その先はザルツァッハ川

 夜はゴルデナーヒルシュのメインダイニングで、鯉のフライを注文しました。オーストリアでは鯉料理をクリスマスに食する習慣があると聞いていたので、一度試してみたいと思っていました。平ぺったいフライで食べやすく、脂がのっていて美味しくいただきました。つけ合わせも私の好きなポテトとキュウリのサラダ。ワインはもちろん、オーストリアのグリューナーフェルトリーナー、白ワインです。                
 結局、今回のサルツブルグはただのグルメ紀行となりました。トマセッリへは翌日に行き、のんびり朝食をとりました。