2014年7月5日土曜日

北の縄文をめぐる旅

 十数年前、夏の別荘があった八ヶ岳山麓富士見町に引っ越した。のんびりと生活をしていたある日、磐座学会の茅野サミットというものが茅野市民館で開かれた。巨石だの巨木だのが好きな私は面白そうだと参加してみた。その講演で地元諏訪出身の藤森照信(東大工学部教授2009年当時)の話を聞いたとたん「そうだこの地は縄文の宝庫だった」と、今いる場所の特殊性に気がついた。それからというもの、富士見町図書館に通いつめ、棚にあった縄文や古代関係の本はほとんど読んだ。
 縄文を思い出してからは、若狭町の鳥浜貝塚、糸魚川市の長者ヶ原遺跡、小矢部市の桜町遺跡、金沢市のチカモリ遺跡、鹿角市の大湯環状列石、青森市の三内丸山遺跡などを見て回った。その間、「縄文阿久友の会」という同好の志をみつけて入会した。この会は八ヶ岳山麓原村の八ヶ岳自然文化園に拠点を置き、考古学者会田進を中心に活動している。
 国宝「縄文のビーナス」「仮面の女神」の2点を持つ縄文研究の草分け的存在の長野県茅野市尖石縄文考古館、今は中央道の下に眠る広大な遺跡「阿久遺跡」を持つ原村、ユニークな縄文文化解釈をする富士見町井戸尻考古館、研究には出遅れたが華やかな縄文遺跡遺物を持つ山梨県北杜市、さらには佐久地方へと、八ヶ岳山麓には縄文遺跡が帯状に取り囲んでいる。日本一の縄文ワールドと思うが、中部山岳よりすごいのはこっちだと、近年になって縄文研究が盛んになった東北・北海道の方から声がする。そこで縄文阿久友の会の2014年度の研修旅行は、「北の縄文をめぐる旅」となった。大湯環状列石と三内丸山遺跡は私にとって二度目だが、縄文仲間と行くのはまた格別だろうと参加した。

大湯環状列石 2014年6月10日 16:00~
 2012年、初めて大湯を訪れた時、看板に「大湯ストーンサークル館」とあるのを見て、なぜ横文字で書くのだろうかと違和感を感じた。大湯環状列石の周りは何もない広々とした場所を想像していたが、、民家が立ち並ぶ普通の田舎の風景で、しかも2つの環状列石、万座と野中堂は道路で分断されているのを見て、ガッカリした。同じストーンサークルでも、ストーンヘンジのある場所は英国特有の緑のなだらかな起伏のつづく平原にたっていた。周りには何もなかったし、訪れた1967年には柵も、ロープも、駐車場もなく、近くに車を停めて、自由に入り込み、石に座ったりしたなあと思い出した。
 前回大湯に来た時は9月で曇り空だったが、今回は6月、辺りは緑一面で陽射しがまぶしかった。夕方なので列石は影をつくり立体的に見え、墓地という寒々しさはない。きっとここで縄文人たちはピクニックを楽しんだことだろう。



三内丸山遺跡 2014年6月11日9:00〜
 三内丸山の「縄文時遊館」は、佐倉市の国立歴史民俗博物館についで立派な建物だとビックリしたのを覚えているが、二回目でも同じ感慨だった。青森県の縄文に対する意気込み「『北東北と北海道の縄文遺跡群』を世界遺産へ」が感じられる。
 遺跡に立つことは、そこに住んでいた人々の生きざまを肌で感じることだと私は思う。エッセイストの須賀敦子は、ローマの遺跡について廃墟という言葉を使っているがこのように書いている。「廃墟は、もしかしたら物質の廃るいによってひきおこされた空虚な終末などでないかもしれない。人も物も、(生身)であることをやめ、記憶の領域にその実在を移したときに、はじめてひとつの完結性を獲得するのではないかという考えが、小さな実生のように芽生えた。かっては劣化の危険にさらされていた物体が別な生命への移行をなしとげてあたらしい「物体」に変身したもの、それが廃墟かもしれない。」
 土の中から出て来た遺跡・遺物も、彼女の哲学で考えるなら生命を宿すあたらしい物体なのかも知れない。遺跡があまりにも整然と整備されてしまうと何も感じられない。


是川縄文館 2014年6月11日15:00~
   青森県八戸市にある是川縄文館には、是川遺跡や風張(カザハリ)1遺跡の出土品が展示されている。風張1遺跡からは「合掌土偶」とネーミングされた国宝が出土しており、特別展示室に鎮座ましましていた。東博の大英博物館「DOGU」里帰り展でお会いしているので初対面の感激はなかったが、その不思議な仕草や文様、形態の複雑さに見とれた。縄文人はこの土偶をアスファルトで補修し大事に扱っていたようだし、現在は頭部にしか赤い色は認められないが、全身が赤く彩色されていたようだ。漆塗りの技術を駆使したのだろう。


 是川中居遺跡(縄文時代晩期)の低湿地からは漆器が多数出土しており、その赤の出来栄えは近年作と言っても疑えないものだ。Facebookにこの写真を出したら、サンディエゴのDougさんが「自分も持っている。いいね!」とコメントしてくれた。慌てて「山田平安堂の漆器とは違う3000年前のものだ」とコメントを返した。


   東北縄文の土器は、八ヶ岳縄文の装飾華美で重厚な土器と違い、ただの筒型で面白くないものだと決め込んでいたが、是川縄文館のものを見て驚いた。1万年以上続いた縄文時代である。年代が違うし、地域も人間も違うから、それを比べること自体ナンセンスだと思うが、つい比べてしまう。是川縄文館で見た土器は、縄文時代晩期特有の薄手のつくりで、しかもフォルムは美しく、装飾も洗練され、釉薬をかけていないのに照り輝いていた。