2017年7月20日木曜日

水月湖のほとりで



  「八ヶ岳jomon楽会の若狭と近江を巡る旅」に参加した。目的地は若狭三方縄文博物館。ここには鳥浜貝塚の考古遺物が展示されている。鳥浜貝塚といえば、縄文通なら誰でも知っている縄文のタイムカプセルと呼ばれる遺跡だ。1962年、河川敷の改修工事で見つかった遺跡なので、保存状態が極めて良く、大型の丸木舟、縄や編み物の断片、赤い漆塗りの櫛などの漆製品、エゴマ、ひょうたん、シカ、フナなどの動植物遺体と糞石などの発見があった。「縄文時代は石器時代」というそれまでの観念は、この遺跡で覆された。木を巧い、漆使い、植物管理をしていた縄文時代という、新しい縄文文化解明の先駆けとなった遺跡である。三内丸山遺跡などの大型縄文遺跡発見は、鳥浜貝塚より後のことになる。


  八ヶ岳山麓富士見町に引っ越してきた考古学好きの私は、縄文時代の遺跡密集地域のど真ん中に住んでいることにふと気づき、縄文時代の勉強を始めた。そして富士見町図書館で最初に手に取った縄文文化に関する本が、哲学者梅原猛編の『縄文人の世界観』だった。その本で環境考古学者安田喜憲を知り、鳥浜貝塚を知った。そして当時、梅原猛が館長をしていた三方町縄文博物館へ出かけたので、今回の鳥浜貝塚行きは2度目となる。今では、「若狭三方縄文博物館」と名前が変わり、展示方法も一段と進化していた。


  2度目の鳥浜貝塚はさておき、今回、私の最大の目的は水月湖畔の宿に泊まることだった。湖畔の宿に憧れた訳ではない。水月湖という湖に憧れていた。


  水月湖は福井県若狭地方にある三方五湖(三方湖、水月湖、菅湖、久々子湖、日向湖)の一つで、五湖のうち最大面積の湖である。五湖はそれぞれ淡水、汽水、海水と水質(塩分濃度)が違うのと水深の違いから、五色の湖と言われている。




  

  素晴らしい天気に恵まれたその日、梅丈岳の頂上庭園展望台からは三方五湖が見渡され、日本海も光っていた。西の展望台の足下には水月湖が広がり、その日の宿、「水月花」が見えた。宿へは樹林の上を投げたカワラケのように、駆け下りて行けば直ぐ着くような気がする近さだった。水月湖を眺めながらも、湖のそばに早く行きたいと焦った。


  水月湖はどうして私を捉えて離さないのか。それは、環境考古学者安田喜憲の研究から始まる。安田喜憲は、発見されたばかりの鳥浜貝塚を環境考古学的アプローチで研究しようと三方湖底をボーリング掘削し、堆積物に含まれる植物の化石や花粉を調べることで、縄文時代の気候変動を復元した。


  安田喜憲の研究は、鳥浜貝塚から始まり、日本海側の環境復元のスタンダードを確率したが、さらに精度の高い堆積物資料を得るために水月湖に着目した。三方湖底のボーリングコア(円柱状の資料)には河川流入の影響があったが、水月湖には河川の流入がなく、水深も30mと深いのでボーリング調査をしたところ、細かい縞模様がボーリングコアの全体に見ることができた。水月湖は周囲をほどほどの高さの山に囲まれ、風が吹き荒れることはないので波は立たない。流入する河川もないし、すり鉢状で水深は深く、湖底は汽水で重く、湖面上層部は淡水と分かれている。そのため、湖底は無酸素状態なのでミミズやゴカイなどにかき乱されることはない。しかも三方断層のおかげで湖は少しずつ沈み、埋まらない湖なのだ。そのような好条件のため、地層の縞はくっきりと見え、微細な堆積物の分析ができた。


  英語ではこの縞を「varve」と言い、氷河地帯など高緯度地帯では知られていたが、温暖な地帯では研究はされていなかった。日本語にないvarveはスエーデン語の「繰り返し、輪廻」を意味するvarvからきている。varveを日本語で「年縞」と名付けた人は、水月湖の基盤まで掘削する決断した安田喜憲であり、私の尊敬する環境考古学者、その人である。安田喜憲はいう。「この美しい縞模様は、美しい日本の四季が生み出したものだ」と。美しい縞模様を作った日本の風土、日本を誇らしく思わなくてはならない。


    年縞堆積物は、過去の環境変化を詳細に復元する目的で使われるものだった。しかし、安田喜憲の助手だった北川浩之はそれだけには終わらせず、地質学的な時間を測る「ものさし」を水月湖の年縞で作ろうと分析を始めた。1枚が1mmもないほどの薄い年縞には、1年分の膨大な情報が詰まっていた。その中の樹木の葉の化石のC14年代を測定すれば、年縞との組み合わせで正確なキャリブレーション(換算法)データが得られる。紆余曲折20年余という時間と、日欧の強い国際協力のもと、水月湖は20139月に考古学や地質学での年代測定の世界標準となった。この「世界のものさし」水月湖の年縞は、現在の世界標準時計グリニッジ天文台に対して、過去の世界標準時計と言うことができる。

   

  水月湖のボーリング調査を決断した環境考古学者、7万年分の年毎の縞を数え、分析した学者たちの努力を、この湖は黙って見ていただけだし、今だって静かに沈黙しているだけだ。安田憲喜と中川毅、北川浩之の師弟による研究と欧州の研究機関との連携プレーで、水月湖の年縞が世界一精密な年代目盛り、世界標準となった。その経緯を、本を読んで追っていた私のワクワクを、同行の仲間の誰も知らない。部屋から、大浴場から、レストランから湖面を眺めていた私のことを、私のセンチメンタルな想いを無視するかのように、湖はさざ波も立てず、静かに湖面を輝かせていた。なにせ7万年のひとときのことなのだから。




参考文献:安田喜憲「一万年前」(イースト・プレス)、中川毅「時を刻む湖」(岩波科学ライブラリー)、森川昌和「鳥浜貝塚」 (未來社)


2018年には若狭三方縄文博物館の隣りに水月湖の展示施設が開館する予定。現在は福井県里山里海湖研究所にて年縞を展示し、解説している。




  



2017年5月15日月曜日

弥生人の粋なはからい

   2017年正月特別番組NHKBSプレミアム「英雄たちの選択」でもう一つの邪馬台国として吉備王国の古墳が紹介されていた。「そうか、吉備にねー、邪馬台国、ありえる」と妙に納得した私は、古墳の前の形態である弥生墳丘墓をどうしても見たくなった。



  楯築遺跡のある倉敷市へ行くチャンスはある。玉野市に住む弟たち訪問の帰途に寄ればよいのだ。岡山県玉野市は倉敷市の隣だから近い。「楯築遺跡、楯築弥生墳丘墓」としっかり名前を覚え、車のナビにも地点を入れ、2017年3月19日、玉野市からの帰途に実行した。


   瀬戸中央自動車道水島インターで下り、開けた畑と市街地が混在する平地を進み、山陽新幹線が横切っているとところで犬養木堂記念館の看板を認めた。そうだ備前は彼の故郷だったと思い出した。犬養木堂は富士見高原を好み、政界を引退して住む場所と決めていた。その木堂の別荘「白林荘」は富士見町、家の隣にある。楯築とはご縁が重なると、関係ないけれど感じ入った。


   小高い丘にさしかかり、坂を上って行くと住宅地に入った。こんな住宅地のところではないと思いながら、右手の鬱蒼とした林を見ると、そこには「王墓の丘史跡公園」と立て札がある。ちょっと意外な感じだったけれど、ちゃんと狭い駐車場もあるので、そこに車を停めた。いつもながら夫は車で座っていると言うので、独りで歩くことにした。いつもこうなのだ。上杉謙信の春日山城に行った時も、独りで城址の頂上まで登った。 シャガの花が咲き乱れていたっけ。


  朝未だきとは言えない9時前だったけれど、日曜日らしく住宅地はひっそりしている。「王墓の丘」には王墓山古墳、日畑赤井堂(法田山古墳)、楯築弥生墳丘墓が並んでいるらしい。楯築弥生墳丘墓へは、駐車場からすぐのところに入り口があった。数日前の寒さとは打って変わった暖かい朝の空気を楽しみながら、ゆっくり林の丘を登っていった。遺跡の案内板のある所で鋭角に道は折れ、さらに登っていくと、変なものが見えてきた。天を突くような白い大きなタンクだ。後で分かったことだが、これは「庄パークヒルズ」の大規模造成工事で作られた給水塔とのこと。古代への憧れがぶち壊され、ムッとしたので、林の散策路へは入らずに給水塔の横を歩いて頂上を目指した。



  小さな丘(円丘部)の頂上には、背丈より高い石が5つ、円を作って立っていた。弥生時代になると縄文の木柱列ではなく石(列石)になるのだと思いながら、2、3周歩いた。下を見渡せる端に立つと、住宅がすぐ足の下まで迫っていた。もう一回石の周りを歩いた。

  丘の側には無粋な倉庫のようなものが建っていたが、そこを通り過ぎて坂を下って行った。鋭角に曲がる場所まで来ると、坂を上がってくる人たちと出会った。何か研究者たちのような感じがする人たちだなと、挨拶をしてすれ違った。すると案内板でそのうちの一人が説明を始めた。思わず「専門家でいらっしゃいますか?説明を後ろでお聞きしてもよろしいでしょうか?」と厚かましく言葉をかけると、その人は「専門家ではないけれど…。今日は二人を案内しながら…」ということ。後ろから静かについて行こうと思ったが、そうはいかなかった。乗り出してなんやかんや質問をして、先頭切って歩いたりしてしまった。



  先ほどの丘は墳墓の頂上で、列石は下半分以上地下に埋もれて建っているとのこと、クレーンもない時代によく建てたものだ。さらに無粋な倉庫は収蔵庫で、楯築神社のご神体として伝わっている亀石が納められているそうだ。そして、ここではこのご神体より一回り小さな亀石(弧体文石)が出土し、それは東京国立博物館にあるとのこと。すごい石なのだ!収蔵庫(兼神社)には金網の張られた窓が四方にあり、中を覗くことができた。九州の亀石は聞いたことあるが、実物を見たのは初めてだ。なるほど不思議な石だ。人の顔にも見える。先ほどはスタスタ歩いただけの墳丘墓が、こんなにすごいものとは知らなかった。偶然出会った方々に深い感謝の念を覚えた。


  三人の方々は、これから一日中古墳めぐりをなさるとか、ついていきたい気持ち山々なれど、帰らねばならない。その前にもう一ヶ所、すぐ近くにある造山古墳を見ようと軽く考えた。車に乗って広い道に出ると、なんと渋滞していた。途中で横道から割り込んで来た車がある。夫に言わせれば譲って上げたとのこと「さっきの人たちだよ」「エー、後をついていって、ついて…!」と、10分も走らないうちに造山古墳に着いた。また挨拶して、今度も一緒にということになった。



  造山古墳(つくりやま古墳)は、全国第4位の大きさである。しかも、自由に登ったり下りたりできる古墳としては最大だということ。古墳は大体が御陵だから、勝手に入れないのだ。冬の間、私は歩いてないからと、ヨロヨロするのを抑えながら若い人たちについて登った。ここは丘ではなく小山だ。頂上からの見晴らしは素晴らしかった。「あの辺りが高松城」秀吉が水攻めして、大返ししたところだ。「ここに毛利が陣を張った。あそこの崖のようになった場所は毛利勢が切り崩した」との説明。この山が古墳だとは、当時の武士たちは知らねーだろう。古墳から戦国時代まで歴史は空を飛んだ。


  別れ際に麓の駐車場で記念撮影をした。「写真を送りたいのですが、メールアドレスは?」「Facebookは?」「してます、してます」バアさんもFacebookしていてよかった。その場で、すぐFacebookでつながった。帰宅後、玉野つながりとか、岡山理科大学つながりも判明したのでさらに楽しくなってきている。

  「弥生人の粋なはからいに感謝してます」と、メッセージが届いた。本当に粋な人だな、楯築墳丘墓に眠る弥生人は。


2017年3月8日水曜日

八ヶ岳縄文ワールド (その3)


昭和23年に初めて土器を掘り起こし、味をしめた武藤は、まだ他にもあるかもしれないと、翌24年に烏帽子の同じ場所の近くに出かけた。そこには畑開墾時に掘り起こされた土器片がガラガラと積み上げられていたので、すっかり嬉しくなり、地主を探し出して土器片が欲しいと頼んだ。すると、「畑の邪魔になるだけだから、いらねえ。持って行け、持って行け」と言われた。それを家の薪小屋に運び、23年積んでいたが、何とか土器の形に復元したいと思うようになり、信濃境駅前の薬局で相談した。そうして、セルロイドを2種類の酸で溶かして接着してみた。穴の開いているところは石膏で埋めた。復元したものの、見てくれの悪いのはもう一度やり直したりなど、自分で復元技術を開発した。武藤は土器の復元と土器の年代識別を独力で苦労しながら行ったが、「全ては土器から教わった」という。

原村の遺跡から出土した土器を手に説明する武藤雄六

昭和33年、町村合併で、今までの諏訪郡境村役場が場所を持て余すようになった。そこで1階前面を富士見町境支所に、その後ろ側を井戸尻考古館として整備し、2階で調査復元などが行われるようになった。そして昭和371月、藤森栄一が中心となって長野県考古学会第一回大会開催したところ、大盛況だった。昭和406月には考古館の運営が地元の保存会から教育委員会に移管され、昭和49年に現在の井戸尻考古館が井戸尻遺跡の上に開館した。


井戸尻考古館の復元家屋

この間にひとつエピソードがある。いわゆる「サントリー事件」だ。井戸尻考古館は一時期、それまで出土した土器を展示品として東京のサントリー美術館に貸し出していた。そのサントリーの重役の別荘が富士見町にあったので、重役は時々現地へ来ていたが、そのうち考古館一帯を買収して、そこから出るものを全部東京へ持って行こうと企んだ。すると、武藤の親戚がサントリー側についたりして大騒動になったが、村の衆が頑張り、サントリーに乗っ取られずに済んだ。危うく〝サントリー富士見醸造所″と〝縄文ミュージアム″ができるところだった。その後しばらくすると、富士見町の隣、山梨県北杜市白州町にサントリー白州醸造所ができた。水の良い土地、縄文の大地に狙いを定め、醸造所とバードサンクチュアリを作ったサントリーの目の付け所には感心する。


井戸尻考古館からの眺め

 藤森栄一の出身校で開かれた講演会「諏訪考古学の原点―武藤雄六と諏訪清陵地歴部の土着考古学」に出向いたのは、この地への理解を深めるのに役に立った。土着考古学の「土着」と言う言葉に最初は違和感を感じたが、そもそも考古学は地面にへばりつく学問であるから土着で正しいのだ。そして土着考古学は、その地をよく知り、愛おしむ人の手に掘られることによって生き生きとしてくる。


諏訪清陵高等学校の講演会で三上徹也と歓談する武藤雄六

その昔、八ヶ岳から霧ヶ峰にかけて火山製ガラス黒曜石が産出され、麓の八ヶ岳山麓でそれを使った矢じり(石鏃)が製作された。青森三内丸山遺跡でも発見されているように、その品質は高く、八ヶ岳ブランドとして日本列島中に広まった。現代、八ヶ岳山麓の精密機器産業は高く評価されているが、ここはまた縄文時代の先端技術の地でもあったのだ。まさに森浩一(19282013)のいう「考古学は地域に勇気を与える」は正解だ。彼は著書『地域学のすすめ』の中でこの言葉を書いている。


星ケ塔の黒曜石採掘遺跡
冷山の黒曜石原石
     
沢底の赤い石に魅せられた少年は、黒い石の存在にも興味を深め、とうとう考古学に足を踏み入れた。そして生涯を考古学研究にかけた。その土着考古学は地元に誇りと勇気と愛を与えるのは確かだ。


高原の縄文王国収穫祭
 くく舞を見たあと、みんな集合

                                    (文中敬称略)

八ヶ岳縄文ワールド (その2)

2017年1月21日、「諏訪考古学の原点 -武藤雄六と諏訪清陵地歴部の土着考古学」というテーマで、講演会が開催された。諏訪清陵高等学校地歴部考古班同期で、現在活躍中の諏訪の考古学者たち(五味一郎、高見俊樹、三上徹也)が、藤森栄一の直弟子武藤雄六を囲んで「土着考古学」の意義と未来を語りあうものであった。


八ヶ岳山麓を行く汽車ポッポの煙を眺めた幼い頃から、富士見の別荘を度々訪れ、八ヶ岳に魅かれ住み着いて17年ほどになる私は、この講演会に早速でかけた。武藤雄六は、私の所属する「縄文阿久友の会」の名誉会員で、2013年の同会創立総会で「原村は高天原」という講演を行なった。それが武藤雄六を知った最初であったが、彼は、私が想像していたコワイ人ではなく、すぐに人を惹きつける自然体の人であった。その人柄に惹かれた私は、諏訪清陵高等学校での話を中心にまとめ、武藤雄六のいままでの足跡を記したいとおもった。

武藤雄六にまつわる地名の境、池袋(いけのふくろ)、烏帽子、葛窪、新道(あらみち)、高森などは、長野県諏訪郡富士見町内の各部落名であり、富士見町境を中心におよそ35kmの範囲に収まる。富士見町内での話なので、まさに「土着考古学」である。

富士見からの八ヶ岳

  武藤雄六は、昭和
5年に長野県諏訪郡富士見町境池袋で生まれ、現在も住んでいる。幼い頃はいじめられっ子だったので、登下校時はいじめっ子たちから逃れるため、ひとりで沢の底をのぞき込んだりしていた。沢底の石を見ているうちに、赤い石に魅せられ、それを拾い続けた。赤い石は六角石(角閃石)という珍しい石であったので、噂を聞きつけた業者が買い付けに来たりした。石の勉強をするため本を買いに諏訪の博信堂へ行き、そこで店主の藤森栄一と知り合った。そのうちに藤森の家に招き入れられ、石器や土器を見せてもらったりしたが、藤森としては「無口な変な小僧」という印象だったらしい。


六角石

昭和23年に富士見町にあった諏訪農学校(現在の富士見高校)を卒業したのち、すぐに結核を患った。それで仕方なく医者の言いつけどおり、ブラブラしながら静養する日々が続いた。百姓仕事はしないで、赤い六角石や自宅近くの池袋の畑に落ちていた黒曜石の矢じりを拾って歩いていた。その頃、富士見町葛窪の親戚の家にあった『諏訪史第一巻』(鳥居龍蔵著)を読んで遺跡に興味がわき、池袋だけでなく、石器の拾える烏帽子へも出かけた。そこで矢じりを拾っていたら、何かに躓いて転んでしまった。躓いたのに腹を立て、掘り起こしたのが最初に掘った土器であった。

   昭和29年、武藤はJR中央本線信濃境駅前の農協に勤め始める。その頃、藤森栄一が富士見町新道で住居址を一軒掘り、その住居で使われていた土器一式を発掘した。それ以来、藤森栄一は富士見町高森の人々と懇意になり、境史学会(旧諏訪郡境村の史学会)を作った。境史学会には武藤の小学校の担任の先生もいたし、藤森栄一とは石つながりの顔見知りでもあったので、武藤もそこに入れてもらった。昭和31年に藤森はこの境史学会で講演をしたが、その時に「信濃境界隈にはすごい縄文の遺跡があるはずだから、ぜひ発掘しろ」と、武藤をはじめ、地元の人々をさかんにあおった。

昭和32年、「どんどん掘れ」という藤森の言葉に従い、武藤らが掘る場所を探していると、現在は井戸尻遺跡の復元家屋の建っている場所を運よく昭和333月から掘らせてもらえることになった。ところが、藤森栄一は戦争で出兵中にかかったマラリアを発症して寝込んでしまった。すると、「自分の代わりに尖石の宮坂英弌から発掘の指導を受けるように」と藤森から指示があった。お酒の好きな宮坂英弌のもとに一升ビンを2本持参して頼み込み、やがて発掘が始まった。

宮坂英弌は、この発掘について記録を取り、調査書を作るようにと武藤に指示したが、武藤はそれまでそういう経験がなく、途方に暮れた。そこでまず、高森公民館で遺物の整理をし、区長に頼んで現場の写真を撮影してもらった。測量もしなくてはならず、これは地元の技師に頼んだ。発掘作業そのものは、「苦労(しんどいこと)はしたくない」と若者にそっぽを向かれたので、池袋の年寄ばかりで行った。しかし、年寄には重労働だったので、宮坂英弌が若い諏訪清陵高校の生徒に手伝いを頼んでくれた。それがきっかけで諏訪清陵高校地歴部と武藤との関わりができたのだった。




八ヶ岳縄文ワールド (その1)


 『信州の縄文時代が実はすごかったという本』が20172月に出版された。著者は藤森英二だ。〝一時的に在庫切れ、入荷時期未定″のAmazonは諦め、地元(富士見町)の本屋に電話して有無を確認すると、「ある」というので、すぐ買った。やはり信州はこの本の発行元「信濃毎日新聞」の地元だから、「すごい、揃えている」と思った!地元といえば、藤森英二の祖父藤森栄一(19111973)は、信州ではみんな知っている有名な考古学者である。


 この本は写真やイラストが多く、若い考古学者のセンスで書かれている。これなら日本はもちろん、世界中の人が読んでも、日本の縄文時代を理解できる。また、縄文遺跡が山麓をぐるりと囲む、縄文の宝庫八ヶ岳の観光ガイドブックとしても役に立つ。



 八ヶ岳縄文ワールドで最も有名な遺跡は尖石遺跡であり、そこに建つ茅野市尖石縄文考古館は国宝土偶2体を所蔵している。縄文時代に、土で作られたヒトガタ「土偶」の日本全国出土数は18000体ほどである。そのうち5体のみが国宝に指定されており、その2体が八ヶ岳山麓にあるということは、この地の縄文時代の煌めきのスゴさを表しているとおもう。

国宝 縄文のビーナス

国宝 仮面の女神




















 

 八ヶ岳は、約200万年前~1万年前までの間に盛衰を繰り返した古い火山群であった。山裾が雄大に広がり、日当たりがよいために人が住むのに適していたが、それだけではない。火山は天然のガラス黒曜石を産出した。だから、旧石器時代からこの優れた石材を求めて人々が集まり、住み着くようになった。山梨県から長野県にかけての八ヶ岳山麓に、縄文遺跡が連なるように存在するのがその証拠だ。

諏訪湖からの八ヶ岳
 長野県茅野市尖石縄文考古館は、縄文時代の遺跡発掘調査で日本をリードした機関として位置づけられている。日本考古学の草分けである鳥居龍蔵(18701953)は、モースの発見した海岸地帯の貝塚だけでなく「山を見よ」と中部高地での考古学調査の重要性を早くから指摘し、『諏訪史第一巻』を著した。その後、鳥居の影響と諏訪地方の学識者たちによって、石鏃(ヤジリ)をはじめとする石器の研究が進んでいった。そうした中、考古学好きの皇族伏見宮博英(19121943)が茅野市豊平の尖石遺跡の発掘調査を行った。それを手伝ったのが宮坂英弌(18871975)だった。このことがきっかけとなって、宮坂は尖石遺跡の発掘にのめり込んでいき、諏訪考古学の先達となったわけだが、一介の教師で、貧しく厳しい生活環境の中、家族を犠牲にしながらも地道な調査を続けた。そして、出土した数々の土器を収蔵·展示する場所として尖石館を作り、それが後の茅野市尖石縄文考古館となった。尖石遺跡は宮坂英弌の調査の成果として、日本で最初に確認された縄文時代の住居址遺跡である。

 若い伏見宮のお相手として、発掘調査には諏訪中学地歴部仲間の若者3人が選ばれて参加した。その中に藤森栄一(19111973)がいた。彼はその後、家業の本屋を継ぐために東京への進学を諦めたが、終生考古学と共に生き続けた。諏訪湖底に沈んだ曽根遺跡を調べ、八ヶ岳西南麓富士見町にある井戸尻遺跡とその周辺遺跡の発掘調査を行った。そうした調査を母校の諏訪中学(現在の諏訪清陵高等学校)地歴部の生徒たちと共に行い、その中から彼の後継者となる大勢の考古学者を輩出した。また、藤森栄一は優れた執筆家で、多くの本を著しているが、その著書は常に生身の人間への愛情に貫かれている。彼の周辺の人々、そして遥か古に生きた人々への優しさがにじみ出ている。

藤森栄一の指導のもと、地元の遺跡発掘調査に励み、独学で考古学の領域を極めた人に武藤雄六がいる。彼は生まれ育った長野県諏訪郡富士見町境にある井戸尻遺跡の発掘調査とその保存を地域の人々と共にすすめ、井戸尻考古館の初代館長となった。
                          

2017年2月10日金曜日

8500年前のシルク!



 絹というと、シルクロードがすぐ頭に浮かぶ。養蚕は中国が発祥の地であり、そこからユーラシア大陸を西へ東へと漏れ伝わったのがシルク伝播の始まりである。漏れ伝わったというのは、絹は当時の最高機密で厳重に守られていたからだ。ところが、昔からリークする輩がいるもので、東へは、紀元前200年頃、難民や移民として朝鮮半島に住み着いた中国人を通じて養蚕技術が海を渡り、弥生時代の日本列島に伝わったらしい。西への伝播は、東よりも数世紀後のこととなった。紀元100年頃、ホータン国へ嫁いだ中国の王女は国禁を破り、自分の結い上げた髪の中に桑の種と蚕の卵を隠し持ち出したことによって、西アジアそしてインドへと養蚕が拡がった。さらに、紀元600年頃にはユスティニアヌス帝統治下の東ローマ帝国にも伝わった。絹の土地という意味のセレス(北インド、中国ともいわれる)から来たネストリウス派(古代キリスト教の一派で唐時代には中国に伝わり、景教となった)の僧が馬の糞の中に蚕を隠し、温めながら、これまた密輸により皇帝に捧げられたのだった。
  なお西方では、古代エジプト遺跡から中国絹の段片が発見されているし、古代ローマでも絹は贅沢品としてローマ上流階級でもてはやされた。そしてローマ帝国は絹を求めてエジプトへ、さらにはインドへ海路進出したことがある。



 養蚕は、中国河南省の仰韶文化(7000年~5000年前)に流れをもつ龍山文化(5000年〜3000年前)で野蚕から家蚕へと飼いならされたのが始まりであることが、考古学上実証されている。ところが、絹織物が作られ始めたのはそれよりも古く、8500年前の斐李崗文化からだという新たな説が2016年に発表された。

   現在の中国河南省は古代中国文明の発祥地で、斐李崗文化、仰韶文化、龍山文化などの新石器時代遺跡が多数ある。また、安陽(殷墟)、鄭州、洛陽、開封などの古都を有する中国文明の基となる「中原に鹿を逐う」地だ。


 河南省賈湖遺跡は9000年前の新石器時代の遺跡で、賈湖契刻文字や鶴の骨で作られたフルート(横笛)で有名だが、そのほかにも2004年にペンシルベニア大学考古学人類学博物館の分子考古学者パトリック・マックガバン教授が、土器の破片からアルコール成分の残滓を発見している。化学分析の結果、はちみつ、サンザシ、ブドウ、コメなどの成分が含まれていることが分かり、清酒とワインをごちゃまぜにしたようなものであるとおもわれた。マックガバンはこの成分分析に基づいて、アメリカ・デラウエア州のビール醸造所で酒の復元を試みたところ、透き通ったシャンパンのようなものができあがったという。賈湖遺跡で大量に出土した土器は、酒造りに使われたものだとマックガバンは言う。

 このように高度な文化をもつ事ことが次々とわかってきた賈湖遺跡で、ついに世界最古の絹の成分が発見された。2017年1月11日のancient-origins.netの Mark Millerの記事によると、賈湖遺跡で8500年前の絹成分が発見されたという。賈湖遺跡の3基の墓から布を織る道具と骨角器製縫い針が見つかり、さらに墓の土から絹のタンパク質を採取することにも成功した。道具と絹の分子が見つかったことにより、賈湖人は絹織物の技術を持っていたことになる。この絹の発見は、古代中国文明史上のエポックとなり、これからの古代研究に拍車をかけるものとなるようだ。


 ちなみに、河南は絹織物発祥の地であるという伝説も伝わっている。蚕のエサとして重要な桑の原産地は、中国北部から朝鮮半島といわれるが、湿潤で温暖な黄河流域河南も桑が育つ最適な地域であった。蚕にとって大切な桑の葉は、カルシウム、鉄分、カリウム、亜鉛、ビタミンB₁、B₂、C,ポリフェノールなどを含む。人間にとっても大切な植物で、葉や根皮は古くから生薬として重宝されてきた。漢方では「桑椹」といい、利尿、血圧降下、解など薬効がある。タイのチェンマイで桑(マルベリー)の樹皮で紙漉きをし、和紙と見まがうような出来栄えの紙を見たことがあるが、中国元時代には紙幣の素材として桑の樹皮が使われていた。


  桑の話が長くなったが、中国神話伝説の三皇五帝時代の皇帝である黄帝の妃、西陵氏は桑の木に白い蛹を見つけ、手でもてあそんでいると糸のようなものが引っ掛かった。それを指に巻いていくと中から虫が出てきたので桑の葉を食べる虫だと興味がわいた。ある日、桑茶を飲んでいる時、手にしていたサナギをお茶の中に落としてしまった。すると白いサナギがほどけて、白く透き通った糸が簡単に取り出せた。それが絹織物を作るきっかけとなり、妃は糸巻き、織機を考案して絹織物の製法を築いたと伝わっている。
  伝説はともかく、少なくとも中国・前漢時代には、蚕室での温育法、卵の保管方法などが確立し、野蚕から家蚕へと養蚕技術が進み、絹織物が高価な貴重品としてシルクロード交易の重要な役目を果たすようになっていったのだった。

写真はancient-origins.netから。斐の文字は正しくない文字。