2014年11月21日金曜日

忙しかったこの秋の〆は十日町のイタリアン(青柳文化庁長官のイタリアと日本の考古学の話)

 ツタウルシが赤くなってきたのに気づいたのは、10月12日頃だった。それからというもの、今年の紅葉はあれよあれよという間に進んだ。我が庭自慢の大きなドウダンツツジもてっぺんが深紅に染まり、瞬くうちに木全体が燃えるようになったかとおもうと、落葉してしまった。その後の紅葉ははかばかしくなかったものの、朝霧に沈んだ紅葉、陽に輝く紅葉は素晴らしかった。モミジのカーペットが敷き詰められると、今年の庭の紅葉も終わった。





 この秋はまず、10月18日に縄文阿久友の会の秋季研修が開かれ、長野県立歴史博物館を訪れた。そこでは、滅多に入ることのできない収蔵庫を案内していただいた。北村縄文人の骨、平安時代の鹿の骨で作られた極小サイコロ、樹脂で保存された木片や舟を課長の愉快な説明つきで見学し、参加者は大いに盛り上がった。見学を終え、博物館を出て建物の後ろの山頂を見上げると、色づいた木々の中に森将軍塚古墳を確認できた。

北村縄文人
古代のサイコロ


 秋になると、鎌倉の94才になる伯母が八ヶ岳に遊びにくるのが常となっている。今回は胆のうの具合が悪く、脂っこいものとアルコール類は禁止中だった伯母は、北杜市にあるアイリッシュパブ「ブル&ベア」で好きなギネスを飲めず、ホテルでお留守番は気の毒だった。でも、原村八ヶ岳自然文化園にあるフレンチレストラン「原村菜園」では「牛肉ではなく鶏肉になさい」と従姉に制しられ、不承不承ながらもしっかり食していたので安心した。美人で、頭も心も元気な伯母は私の自慢!
94歳の伯母は父の妹

  私たちには父親同士、母親同士、娘同士が同学年で友人という珍しい仲良し一家がいる。先月もその夫妻が蓼科東急リゾートマンションに来たので、一緒に上高地へいくことになった。秋の上高地は初めてだし、夫と二人連れでなく、友達との紅葉狩りということで、喜び勇んで出かけた。その日、10月24日は、とっておきの素晴らしい天気に恵まれ、大正池から河童橋まで散策した。人出も少なく、ゆっくりのんびり上高地の秋を楽しむことができた。ランチはもちろん、上高地帝国ホテル「アルペンローゼ」のハッシュドビーフかけのオムライス! 



 その次の夕刻、蓼科のマンションにキノコ鍋をご馳走になりに行ったところ、窓から御嶽山が真正面に見えた。夕陽が御嶽山頂に落ち、雲の中に噴煙が拡がり、それが黒くたなびいてみえた。なんという光景、噴火で亡くなった登山者に祈りを捧げながら、暗くなるまでその景色に観入ってしまった。


 11月5日には「縄文農耕を問う」というプロジェクトの仕事の一端として、葉山にある総合研究大学院大学へ山越えのドライブをして、豆入り焼成実験土器を10個運んだ。ルートは甲府の御坂道ー河口湖ー山中湖ー篭坂トンネルー御殿場(東名)秦野中井ー二宮ー葉山。東富士五湖道路沿いの木々の紅葉はもう終わっていたが、黄金の唐松に映える富士山は美しかった。帰途は横浜歴史博物館での「大おにぎり展」に立ち寄ったので、横浜町田ー東名ー圏央道ー中央道のルートをとった。
植物考古学の研究室で
大おにぎり展で

十日町のイタリア

 葉山行きの3日後の11月8日、新潟県十日町市博物館35周年記念特別講演会があるというので、十日町まで遠征した。「イタリアの考古学 日本の考古学」講演のテーマに魅かれたからだ。講演者は青柳文化庁長官。彼は1969年東大を卒業したのち、ローマ大学に留学し、それから40年間イタリアの発掘に携わっている。ポンペイ1974〜1976年、アグリジェント1979〜1986年、タルクィニア1992〜2005年、ソンマ・ヴェスヴィアーナ2002年から現在に至るという具合だそうだ。

 ポンペイの廃墟へは1967年に行ったことがある。その当時、見物の人影はほとんどなく、警備員だけが目についた。遺跡の中を好き勝手に夫とウロウロしていると、警備員の一人が手招きする。彼についていくと、地下室に案内してくれた。そして「ほらそこ」と指差した。そこには溶岩に飲み込まれた人間が二人石膏になっていた。立っているわけでもなく、座っているわけでもない。警備員は面白そうに目をクリクリさせた。そこで「アッ!」と分かった。あの瞬間の姿が石膏になっているのだ。でもかわいそうなことに、ふたりは引き離されても、あの格好のままでいた。

 ポンペイからさらに南に下り、シチリア一周ドライブ旅をした私たちは、アグリジェントにも立ち寄った。ギリシャの神殿が美しいとミシュランガイドにあったからだ。そのギリシャ神殿は、広大な土地の海の近くの高台に建っていたと覚えている。他には何もなかった、まだ発掘がされていなかったのだろう。歩いていると、羊飼いが寄ってきて、手のひらを開げ、ローマ銀貨(金貨ではなかった?)を見せた。「欲しい」と一瞬思ったが、マフィアが木の陰から飛び出てきて、身ぐるみ剥がされると怖いとおもったので断った。いまでも時々、夫と「あの銀貨もらえばよかったね」と未練がましく話したりしている。

 講演で青柳長官は、古典考古学すなわちヨーロッパ人の魂のふるさとであるギリシャ・ローマの考古学を力説した。しかし、このところのヨーロッパの考古学は、18世紀以来の古典の呪縛(ギリシャ・ローマ)から解放され、足もとの地道な考古学に励んでいると昨年のヨーロッパ旅行で感じていたので、ギリシャ・ローマという古き良き時代の話は少し物足りなかった。

 少しがっかりしていたところ、おもわぬ拾いものをした。午後5時半過ぎに講演が終わり、十日町の地図を見ていた夫が近くによさそうなイタリア料理店があるという。こんなところでイタリアンとおもったが、空腹には勝てずそこに向かった。店は講演会場「クロス10ホール」の隣にある「キナーレ」という建物の二階にあった。クロス10だの、キナーレだの、不可思議なネーミングだが、十日町市は「越後妻有トリエンナーレ」という芸術祭を開催しアートで町おこしをしている。このキナーレという建物もイタリア人の設計で、モダンアートの展示室があるとおもえば、温泉(テルメ)もある。それにイタリア料理「越後しなのがわバル」という店は、アンティパスト、メイン、デザートときちんと揃っており、しかも地産地消の「妻有ポークのビール煮込み」「村上サーモンのカルパッチョ」「八海山雪えびのフリット」「妻有キノコとスモークサーモンのあつあつグラタンピッツア」は、それぞれ、久しぶりに「おいしい!」と唸った。今年の秋の〆は十日町のイタリアンとなったようだ。 

十日町は国宝火焔型土器でも有名

越後しなのがわバル
2つのおまけ
  この秋の話にはおまけがついてしまった。11月15日、富士川沿いの国道52号線を下った。登呂博物館での「八ヶ岳山麓から駿河湾へ」という縄文時代から弥生時代への展示を見に行き、尖石縄文考古館の山科学芸員と井戸尻考古館の小松学芸員の講演を聞いた。Jomonフリークの私は八ヶ岳山麓から彼らのおっかけをしたわけだ。その次の日16日はベトナム人でアステラス製薬在ウィーングループ会社から東京赴任中のトゥイが遊びに来たので、奈良井宿そして福島宿をぶらぶら歩いたが、木曽谷は冬だった。
登呂遺跡
オウサム福島宿

2014年9月26日金曜日

さよなら原発、そらきたソーラー

 3•11福島原発第一事故が起きて以来、「さよなら原発」のステッカーを車に貼って走り回っています。スリーマイル島、チェルノブイリの原発事故は、原子爆弾を落とされたHiroshima ・ Nagasaki の日本にはあってはならない事故だと思いながらも、それまでは遠いことのように考えていました。東北地方太平洋岸沖地震と津波による福島原発第一の事故から3年が経ちましたが、わが国にあってはならない原発大事故から、国民は目をそらされているように感じて仕方ありません。世界に向かって"under control"と大見得を切った首相のもと、根本的な問題は見てみぬふりをしている政府に対して、はっきりものが言えない国民は、不正義の中で暮らし続けているのです。

 福島県会津若松駅前には「什の掟て」という看板が立っています。そこには会津藩子弟教育のための「ならぬことは、ならぬのです」という訓戒が書かれています。私は理屈抜きで「ならぬことは、ならぬのです」という勇気が、今、この時に必要だと強く思います。子供に「ならぬことはならぬ」と教育しなければ、ロクな人間に育ちません。「そうね、そうだよね」と、他人に合わせて暮らしていくのは、丸く収まり容易いことでしょう。でも、はっきり言うべきことを言わなければ、世の中よくなっていきません。だから私は「さよなら原発」と発します。
 


 2014年9月に「気候変動サミット」が国連で開催されました。その際、「この星で私たちが生きていくための最大の課題に取り組むのは、今でしょ!」とディカプリオ国連平和大使がスピーチしました。その課題とは、再生可能エネルギーを使うことだそうです。日本の首相といえば、わが国の温暖化ガス削減を明示できず、排出枠を言えないままでした。原発再稼働に舵を切っている『日本をとりもどそう』首相には、後ろを振り帰らず、前を向いて歩いてほしいです。でなければ、今起きている地球の気候変動や社会変動に、日本は取り残されていくのではないでしょうか。今や変質の時代が来ているのです。私たちの生活も変質していかなければ、人間としての存在が危うくなるのではないかと心配です。ですから、自己の欲望のままの消費一辺倒ではなく、慎ましい生活を送るのが、変質への第一歩だと思っています。ディカプリオは個人レベルの省エネだけでは追いつかない、世界中の産業界や政府が断固とした大規模な行動を取るべきだ、と話しました。                  


このススキ野はもうない

 1964年、長野県富士見町では三菱マテリアルが約9.8haの土地を購入、セメント工場を作る計画が持ち上がりました。八ヶ岳を望み、南アルプスの見える広大な原野、その一部は湿地帯ビオトープです。当時、住民の猛反対と、その近くの白林荘(犬養毅の元別荘)の所有者山縣勝見が音頭をとって反対したので、その計画は頓挫しました。それから50年近く、約30万坪の原野には鹿が走り回り、雉の住処となり、秋には箱根の仙石原に負けずとも劣らないススキ野が広がっていました。この30万坪を一周する小道は、私のお気に入りの散歩コースでもありました。過去形で書くのは、この秋その草原が消滅したからです。今まで散歩に出るたびに、一企業が所有する原野がいつまで保全されるのかと、心配でたまりませんでした。しかしとうとう、その心配が現実になってしまったのです。

 草原が消滅した土地には、名古屋の中国資本の入るディベロッパーが20年間事業でメガソーラー発電施設(出力5MW)を作り、中部電力へ送電する予定です。工業団地誘致に失敗した富士見町内には、すでに8MWのソーラー発電施設が完成しています。聞くところによると、九州電力ではソーラー発電が急増したものの、電力供給が不安定なため、需給バランスがくずれるという問題が持ち上がっているようです。九州でそんな状態なのに、自然を破壊して、20年間事業を安定継続できるか疑問です。9月には原野が消え、今やオレンジ色のケバケバしい柵が張り巡らされています。

 再生可能エネルギーでは、とくに地熱、バイオマス、太陽熱、水量発電が安定して電力を供給できるようです。また、水力発電でも小型水力発電なら自然破壊を引き起こさず、日本の水資源活用には最適のようです。いつだったか、BS日テレ「小さな村の物語 イタリア」に、100年も前に作られた水力発電装置を守っている村人が出てきました。その古い小さな装置を大切に扱う姿が、大変印象に残りました。

9月14日空撮 真ん中が現場

木々は倒され
刈り取られたススキ野
醜いフェンス
そらきたソーラー
富士見町のメガソーラー発電施設の一部

鉄条網が張られるかも!


2014年8月16日土曜日

国宝の土偶が二つもある八ヶ岳山麓茅野市!

仮面の女神
   国宝といえば、京都や奈良の有名な仏像を思い浮かべるが、粘土で作られた国宝が全国に5つもあるのを知っている人は少ないだろう。5つある、否、5つしかない国宝指定の縄文時代の土偶のうちの2つが、このほど小さな町(市)に存在することになった。茅野市だ。その当の茅野市は今や大騒ぎ。大騒ぎといっても地味な信州人だから、大阪人のように大大騒ぎするわけでなく、控えめなことこの上なし。答申されたのだから、“国宝土偶”の「仮面の女神」と堂々とアピールすればよいものを、「まだ国宝とは言えない。5月末まで待とう」と茅野市長がつぶやいていた。5月末はおろか、8月になっても未だに文部科学大臣から正式のお達しがないので、「国宝・仮面の女神」の幟旗は静かに丸められたままだ。

    土偶とは、縄文時代に作られた素焼きの土人形(ひとかた)のことである。一番古いのは1万3000年前のもので、三重県の粥見井尻遺跡で出土した、小さいのに女性とはっきり分かる土偶だ。それから縄文時代が終わるまで約1万年間作り続けられ、現在1万5000体ほど発掘されている。その中でも「遮光器土偶」は教科書にも載り、最も知られている。これは明治時代、先史学研究をリードした坪井正五郎がロンドン留学中に「遮光器をつけた土偶」とみなしたもので、いにしえにロマンを求める人たちはそれを宇宙人だと噂し合っている。
粥見井尻遺跡 6.8cmの土偶
遮光器土偶
国宝の土偶がもう一つ増えたと静かに喜んでいる茅野市尖石縄文考古館には、1995年6
月に国宝に指定された「縄文のビーナス」が特別展示室に鎮座ましましている。それと同じ展示室に、未だ重要文化財のままの「仮面の女神」が存在している。

 八ヶ岳西南麓で縄文文化が一番栄えた約5000年前、幼い巫女が急死した時、一緒に葬られたのが「縄文のビーナス」だと言われている。幼い巫女はこのふっくらとした、雲母がキラキラ光る「ひとかた」を大切に崇めていたのだろう。普通、土偶は壊され、バラバラ状態で出土しているが、不思議なことに「縄文のビーナス」は完全な形で埋められていた。「仮面の女神」は「縄文のビーナス」より約1000年後に作られたもので、これも墓であろうと見られる土壙からほぼ完形で出土している。

縄文のビーナス
土偶が国宝となるには、出土状態が明確でなくてはならない。「縄文のビーナス」が1986年に棚畑遺跡を発掘中に出土した際、出土を裏付けるために現場で記録写真が撮影された。それから14年後の2000年、中ッ原遺跡発掘中に土偶が出土すると、今度は警備員の監視の下で出土の様子を記録し、現地説明会を開くなど、さらに慎重を期したという。「縄文のビーナス」と「仮面の女神」両方の出土に携わった当時の学芸員、守矢昌文尖石縄文考古館館長は、そう話していた。彼は今年4月に館長になったばかりのホヤホヤなので、喜びはひとしおだろう。

可愛い後ろ姿
愛らしい「縄文のビーナス」の後ろ姿が私は好きだ。でも存在感は「仮面の女神」の方が断然ある。これまでにも時折、尖石縄文考古館に出かけては両方を愛でていたが、ある日、頼みもしないのにボランティア解説員がそばに来て解説を始めた。「自分の考えだが、『仮面の女神』の時代は縄文時代後期で気候が寒くなり、食糧が不足したため、仮面を被って“間引き”をして廻っていた人がいたのだと思う」と語った。その時、私は「江戸時代の飢饉じゃあるまいし、未知に包まれたロマンをぶち壊すようなことを、自説とはいえ言っていいのか?私みたいに縄文時代を理解している人ならともかく、そうでない人に言ったら、間違ったイメージを植えつけることになる」と、腸が煮えくり返った。それからしばらくの間、「仮面の女神」を見る度に暗い気持ちになった。

仮面の女神
今年3月、「仮面の女神」が国宝に答申されたと新聞に載ったとき、小学生のコメントがあった。「仮面がちょっと怖いけど、かっこいい!」素直なコメントをしていた。その通り、仮面の女神はかっこいいよ!


2014年8月21日国宝指定『仮面の女神』



2014年7月5日土曜日

北の縄文をめぐる旅

 十数年前、夏の別荘があった八ヶ岳山麓富士見町に引っ越した。のんびりと生活をしていたある日、磐座学会の茅野サミットというものが茅野市民館で開かれた。巨石だの巨木だのが好きな私は面白そうだと参加してみた。その講演で地元諏訪出身の藤森照信(東大工学部教授2009年当時)の話を聞いたとたん「そうだこの地は縄文の宝庫だった」と、今いる場所の特殊性に気がついた。それからというもの、富士見町図書館に通いつめ、棚にあった縄文や古代関係の本はほとんど読んだ。
 縄文を思い出してからは、若狭町の鳥浜貝塚、糸魚川市の長者ヶ原遺跡、小矢部市の桜町遺跡、金沢市のチカモリ遺跡、鹿角市の大湯環状列石、青森市の三内丸山遺跡などを見て回った。その間、「縄文阿久友の会」という同好の志をみつけて入会した。この会は八ヶ岳山麓原村の八ヶ岳自然文化園に拠点を置き、考古学者会田進を中心に活動している。
 国宝「縄文のビーナス」「仮面の女神」の2点を持つ縄文研究の草分け的存在の長野県茅野市尖石縄文考古館、今は中央道の下に眠る広大な遺跡「阿久遺跡」を持つ原村、ユニークな縄文文化解釈をする富士見町井戸尻考古館、研究には出遅れたが華やかな縄文遺跡遺物を持つ山梨県北杜市、さらには佐久地方へと、八ヶ岳山麓には縄文遺跡が帯状に取り囲んでいる。日本一の縄文ワールドと思うが、中部山岳よりすごいのはこっちだと、近年になって縄文研究が盛んになった東北・北海道の方から声がする。そこで縄文阿久友の会の2014年度の研修旅行は、「北の縄文をめぐる旅」となった。大湯環状列石と三内丸山遺跡は私にとって二度目だが、縄文仲間と行くのはまた格別だろうと参加した。

大湯環状列石 2014年6月10日 16:00~
 2012年、初めて大湯を訪れた時、看板に「大湯ストーンサークル館」とあるのを見て、なぜ横文字で書くのだろうかと違和感を感じた。大湯環状列石の周りは何もない広々とした場所を想像していたが、、民家が立ち並ぶ普通の田舎の風景で、しかも2つの環状列石、万座と野中堂は道路で分断されているのを見て、ガッカリした。同じストーンサークルでも、ストーンヘンジのある場所は英国特有の緑のなだらかな起伏のつづく平原にたっていた。周りには何もなかったし、訪れた1967年には柵も、ロープも、駐車場もなく、近くに車を停めて、自由に入り込み、石に座ったりしたなあと思い出した。
 前回大湯に来た時は9月で曇り空だったが、今回は6月、辺りは緑一面で陽射しがまぶしかった。夕方なので列石は影をつくり立体的に見え、墓地という寒々しさはない。きっとここで縄文人たちはピクニックを楽しんだことだろう。



三内丸山遺跡 2014年6月11日9:00〜
 三内丸山の「縄文時遊館」は、佐倉市の国立歴史民俗博物館についで立派な建物だとビックリしたのを覚えているが、二回目でも同じ感慨だった。青森県の縄文に対する意気込み「『北東北と北海道の縄文遺跡群』を世界遺産へ」が感じられる。
 遺跡に立つことは、そこに住んでいた人々の生きざまを肌で感じることだと私は思う。エッセイストの須賀敦子は、ローマの遺跡について廃墟という言葉を使っているがこのように書いている。「廃墟は、もしかしたら物質の廃るいによってひきおこされた空虚な終末などでないかもしれない。人も物も、(生身)であることをやめ、記憶の領域にその実在を移したときに、はじめてひとつの完結性を獲得するのではないかという考えが、小さな実生のように芽生えた。かっては劣化の危険にさらされていた物体が別な生命への移行をなしとげてあたらしい「物体」に変身したもの、それが廃墟かもしれない。」
 土の中から出て来た遺跡・遺物も、彼女の哲学で考えるなら生命を宿すあたらしい物体なのかも知れない。遺跡があまりにも整然と整備されてしまうと何も感じられない。


是川縄文館 2014年6月11日15:00~
   青森県八戸市にある是川縄文館には、是川遺跡や風張(カザハリ)1遺跡の出土品が展示されている。風張1遺跡からは「合掌土偶」とネーミングされた国宝が出土しており、特別展示室に鎮座ましましていた。東博の大英博物館「DOGU」里帰り展でお会いしているので初対面の感激はなかったが、その不思議な仕草や文様、形態の複雑さに見とれた。縄文人はこの土偶をアスファルトで補修し大事に扱っていたようだし、現在は頭部にしか赤い色は認められないが、全身が赤く彩色されていたようだ。漆塗りの技術を駆使したのだろう。


 是川中居遺跡(縄文時代晩期)の低湿地からは漆器が多数出土しており、その赤の出来栄えは近年作と言っても疑えないものだ。Facebookにこの写真を出したら、サンディエゴのDougさんが「自分も持っている。いいね!」とコメントしてくれた。慌てて「山田平安堂の漆器とは違う3000年前のものだ」とコメントを返した。


   東北縄文の土器は、八ヶ岳縄文の装飾華美で重厚な土器と違い、ただの筒型で面白くないものだと決め込んでいたが、是川縄文館のものを見て驚いた。1万年以上続いた縄文時代である。年代が違うし、地域も人間も違うから、それを比べること自体ナンセンスだと思うが、つい比べてしまう。是川縄文館で見た土器は、縄文時代晩期特有の薄手のつくりで、しかもフォルムは美しく、装飾も洗練され、釉薬をかけていないのに照り輝いていた。

2014年6月9日月曜日

ニコン1 F4

Nikon1J4
  カメラはいろいろ使ってきたが、デジタル化してからはオリンパスの一眼レフとニコンクールピクスを愛用していた。ところが、iPhone5を持つようになってからは、もっぱらiPhoneで写真を撮るようになった。「スナップを撮るだけだから、もうカメラはいらないよ」と強がっていたが、どうも色が気に食わない。フィルムの時代でもブルーっぽいフジフィルムよりはっきりした色のコダック派だったし、マミフラワーデザインの先生からは「あなたの花は、色の取り合わせがよい」と褒められたせいか色にはこだわる。                                           
  5月の連休が終わってしばらくしたある日突然、カメラが欲しくなってニコンのサイトをみたら、すごいのがあるNikon Df。しかし、値段の0が一つ多いし、私の手には負えそうにないカメラだ。チェックしていくと、4月に販売されたばかりの手頃なのがあった。  

 Nikon1J4。早速、Amazonや価格.comを調べて、オレンジ色で最安値を付けているeTrendに注文した。Amazon以外は取り寄せたことがないので、ちゃんと届くかしらと、とっても心配した。代金を振り込んだら、返事メールが来た。「オレンジ色は取り寄せでいつ入手できるか分からない」という。もう〜、eTrendは!と怪しんだが、きちんとした対応のメールだから大丈夫!?!?!?ひとりでハラハラの週末をすごした。週末が明けて、月曜日5月19日に発送したとの連絡。火曜日5月20日には手元に届いた!                 
最初に撮った写真





昨年3房しか付けなかったラバーナム、今年は見事にフサフサ。
   明日からは「北の縄文」研修旅行で青森に出かける。オレンジ色のカメラをぶらさげて写真を撮るのが楽しみ、楽しみ。操作方法はまだ手中に入ってないけれど、撮影するのは縄文時代の石とか、土器、土偶だからオート撮影でいいでしょう。Wi-FiでiPhoneにさくさく入ってくるから、FaceBookにアップしようっと。