2015年12月12日土曜日

The Oriental, Bangkok その2


オリエンタルバンコクの旧館(オーサーズウイング)
     スペイン国王をオリエンタルのロビーでお迎えできたのは一つのエポックだが、オリエンタルでの一番の思い出は、1996年、マミフラワーデザインスクールの「フラワーデザインを訪ねて、タイの旅」を恩師マミ先生に提案し、企画し、実行してオリエンタルホテルに滞在、マミフラワーデザインのエキジビションを開催したことだ。それは、父の慶應義塾大学時代の友人で元大蔵大臣ソンマイさんと親しかったクン・チットさんに相談したことから始まった。彼はタイ王室に繋り、母親はイタリア人というユニークな人で、すぐオリエンタルホテルのジェネラルマネジャー クン・カートを紹介してくださった。
    旅行を計画していた時に折良く、クン・カートが来日されるというので、帝国ホテルのロビーでクン・カートと待ち合わせ、マミ川崎のデモンストレーションのことをお願いした。このお願いしたことよりも、クン・カートが「帝国ホテルのロビーは駅の通路のようだね」と苦笑いされたことをよく覚えている。その時、ロビーはホテルの顔であるのだと、あの優雅なオリエンタルホテルのロビーを想った。


1996年マミ川崎のデモンストレーション

   オリエンタルホテルでのマミ先生のデモンストレーションは、二階のホールで開催することになった。旅の一行は20名くらいだったと記憶しているが、その当日はタイの友人や在タイ日本人の方々など大勢が集まってくださった。オリエンタルホテルの花装飾担当者もポマライ(ハワイのレイのようなもの)の作り方を教えてくれて、日泰友好フラワーデザインの集いとなった。 

本館と対岸の施設を結ぶオリエンタルのボート                                
     オリエンタルホテルに滞在中、マミ先生にオリエンタル・スパをお勧めした。すると、早速チャオプラヤ川をオリエンタル専用ボートで渡り、対岸にあるスパでエステを試された。このオリエンタル・スパは1994年にオープしたのだが、化粧品会社社長のタイの友人に誘われてそのオープニングに出席したこともあり、アロマに満ちた私のお気に入りの空間となっている。チャオプラヤ川の川風に吹かれ、ボートを降り、棕梠の小径を数分歩けばスパの入り口に着く。木製の重厚なドアを開けて中に入ると、レモングラスのノートが効いた香りに包まれ、心地よい時間に誘ってくれる。マミ先生はオリエンタルホテルがお気に召され、あの後も一人で滞在され、オリエンタル・スパを堪能なさったと、ご子息でマミフラワーデザインスクール校長の川崎景介さんに後で伺った。
 

オリエンタル・スパ(FBから)

    オリエンタルホテルには、友人や仲間を誘って何回か滞在したが、落ち着いて滞在できるのはもちろん家族と一緒の時だ。
        オリエンタルホテルでの母のお気に入りのレストランは「チャイナハウス」。お粥ディナーを喜んでいた。私は「ヴェランダ」での朝食が何と言っても気に入っている。スイカジュースを飲んでから、大きな器に入ったカオトン(お粥)をゆっくりといただく、川風が涼しさを運んでくる。娘のお気に入りレストランは「ノルマンディ」。オーサーズウイングの最上階にあり、高名なシェフが世界から来てマネージするので、その美味しさはこの上ない。よく行った頃はフランス・ニースに近いラナプールの三ツ星「オアシス」ウーティさんの弟子が担当していた。オーサーズウイングの一階にあるオーサーズラウンジのアフターヌーンティは夫のお気に入りである。アフターヌーンティをいただくと、タイの友人宅での超美味しいタイ料理ディナーに差し障りがでるので、私はお茶をいただくよりもオーサーズラウンジの雰囲気を楽しむのがいつも精一杯だが、夫は平気でティもディナーも平らげる。
    
                                                     
オーサーズラウンジ
                                                                         
   オリエンタルホテルに滞在していると、クン・カートの独特なサインがしたためられているカクテルパーティへの招待状が部屋に届くことがあった。そのパーティもオーサーズウイングのホールで行われ、宿泊客やタイの有名人が集まる。北欧の殿方と会話していたら、その方はチャオプラヤ川岸に船着き場があるチーク材を使った古い家をバンコクでの別荘としているとのことがわかった。その話を聞きながら、アユタヤからオリエンタルホテルの専用ボートで川下りをしながら見た川べりの邸宅を思い出していた。オリエンタルホテルは非日常に満ち、そこに居るだけで夢の世界を舞っているようだ。

クン・カートからのカード
      2006年には母と娘と宿泊した。その時、クン・カートが「チャオプラヤ川の岸辺に建つ優美な老婦人の館へようこそ」というメールをくださり、部屋にはシャンパンと花束が置いてあった。しかし、あれからチャオプラヤの流れのように時は過ぎ去り、もうクン・カートはあそこにはいらっしゃらない。一緒に行った母ももうこの世にはいない。


ソンマイ夫人の96歳のお祝いにて
   2015年夏、ソンマイさんの奥様の96歳のお祝いに娘と出席するため久しぶりにバンコクを訪れた。チャオプラヤ川の対岸にはペニンシュラがそそり立っているし、街中にも大きなホテル、小綺麗なホテルが林立しているが、名前が「マンダリンオリエンタルバンコク」に変わっても、私がバンコクで滞在するホテルはオリエンタルホテルしかないと、娘と一緒に泊まった。タイの友人から「オリエンタルホテルは昔と変わらない?」と訊ねられた。"Almost same"とは答えたが、やはり何か物足りないものがあるのは否めない。それでもあのロビーの雰囲気、部屋からのチャオプラヤの眺め、バトラーのサービスは私の心を豊かにしてくれる。これからも私も娘もバンコク滞在の折には、きっとオリエンタルホテルに泊まるだろう。娘のお気に入りのホテルでもあるから。

:  クン(khun)はタイ語での男女問わずの尊称。
       オリエンタルバンコクの伝説的な総支配人 クン・カート  Khun Kurt Wachatveitl


2015年12月9日水曜日

The Oriental, Bangkok その1



オリエンタル・バンコクの旧館 現在のオーサーズウイング

   1862年、アンナは息子のルイズと一緒に蒸気船でシンガポールからバンコクに到着した。チャオプラヤ川を遡りながら椰子の林や黄金に輝く寺院のパゴダを遠くに眺めていたが、次第次第に家々の様子が視界に入ってきた。やがて、一つの家の屋根にフランス国旗がたなびくのを認めた。これは「王様と私」の冒頭に描かれている風景であるが、現在のフランス大使館はまさにアンナが見た場所に今も建っており、その隣にオリエンタルホテルが1876年にオープンしている。写真は最近オリエンタルホテルのフェイスブックに載っていたものだが、建物の位置はアンナの頃と同じだ。フランス大使館、オリエンタルホテルそして旧イースト・アジアティーク社屋が並んでいる。19世紀、世界各地にグランドホテル(近代的、本格的な大きなホテルのこと)が建てられ、横浜のグランドホテル、神戸のオリエンタルホテルもその頃にできた。私にとって「オリエンタルホテル」とは、長い間神戸オリエンタルホテルが「オリエンタルホテル」と決まっていたが、今となっては、「オリエンタルホテル」と言うと、マンダリンオリエンタルバンコク(旧名オリエンタルバンコク)しかありえない。

マンダリンオリエンタルバンコクのFBからの写真

    1992年、父のお供で初めてバンコクに行き、その頃の日本ビジネスマンご愛用ホテルと決まっていた街中のヒルトンホテルに宿泊した。父に「オリエンタルホテルは素晴らしいそうだから、一度行ってみたいわ」とお茶を飲みに行くと、そのまま宿を変えることになった。それが私とオリエンタルホテルの付き合いの始まりであった。
   シーロムロードからニューロードへ入り、アスンシオンスクールと旧イースト・アジアティーク社の細い道を右にちょっと坂を上がって車が停まると、シーク系インド人のドアマンが車のドアを開けてくれた。会釈しながら顔を上げると大きな木のドアが左右にすうーっと開いた。オリエンタルホテルの正面玄関ドアは自動ドアでないのに、いつでも出入りする時は自分で開ける必要はない。開いたドアからふあっと招き入れられるように入ると、そこは広くも狭くもない、落ち着いたロビーであった。入った正面には見たことのない花、後で調べるとハンギングヘリコニアが豪華にアレンジメントされていた。ロビーの天井からは大きなベル型のオブジェ数個が吊り下げられ、エキゾチックなムードを際立たせる。
ハンギングヘリコニアの装花


                                         

   オリエンタルホテルの居心地のよいロビーに座って人間を観察するのは楽しい。少しばかり緊張しながら入ってくる人、お洒落をしてウキウキと出ていく人、待ち合わせをしながらガヤガヤ話す人たちなど、人様々、お国柄も違う。夕刻、食事へのお迎えを待っている間、ロビーに響く弦楽四重奏団のヴィヴァルディの「四季」は心をときめかし、楽しい夜へと誘ってくれる。
  10年ほど前になるが、娘と滞在していた時のことだ。外出から帰ってくると、ホテル付近の警備がいやに物々しい。ロビーはいつもの雰囲気だけど人が少ない。昼下がりだからだと思いながらも、何かある様子なので「誰か現れるかも? 少し、ここに座っていましょう」と二人でロビーの隅に陣取った。よく見ていると、ホテルの私服警備員が数人いる上に、海軍の白い制服もいる。期待がふくらむ。15分ばかり経ったところで、黄金のロールスロイスが玄関に到着、現れたのは白い軍服姿のスペイン国王フアン・カルロス1世だった。このホテルで会合があるらしく、二階への階段を案内されながら上って行かれた。


マンダリンオリエンタルバンコクのFBから


2015年7月25日土曜日

瀬戸内ドライブ旅 その3 松山ー尾道ー呉

  愛媛県久万高原にある上黒岩岩陰遺跡から、山を下って松山市内に入った。上黒岩岩陰遺跡は今から50年前列島改造論で日本が掘り返される前に発見された遺跡なので、考古学界もまだ静かな頃だった。この遺跡は、1961年から1970年まで5次にわたって発掘調査されたが、2009年に再調査が行われ、整理報告書も刊行され、遺跡の重要性が再確認されている。その考古館の鄙びた佇まいは、昔の長野県茅野市尖石縄文考古館などを彷彿とさせた。上黒岩岩陰遺跡で思いのほか時間をすごしたので、松山城には上がらず、城下町をチラと見ただけで、私にとっては夏目漱石の『坊っちゃん』ではなく『坂の上の雲』の秋山参謀の町、松山を後にした。

   その夜の宿泊地は尾道にあった。今治から「しまなみ海道」の島をつなぐ橋から橋へと、ひたすら雨の中を走った。この辺りは和田竜著『海賊の娘』の舞台となった村上水軍根拠地だと、雨にそぼる島影を追った。

   当初の予定では、尾道でゆっくり坂を散歩しようと計画していたが、寄り道したために着いたのは午後7時近くだったので、坂道歩きは止めた。予約していたグリーンヒルホテルは名前とは違い、平地の尾道駅近くで、部屋の窓から下を見るとそこは波止場、波がチャプチャプ打ち寄せていた。目を上げると、さっき横切ってきた向島が見えた。尾道の波止場と向島の間では、小さい渡しフェリーが行ったり来たりしていた。高校生たちも列をなして乗ったり降りたりしている港町の日常風景に心を動かされ、尾道の坂を登らなくてもこれでいいとおもった。尾道は長崎を縮小したような町で、想像していた鄙びた尾道とは違った。林芙美子はもう遠い昔のことなのか、最近の映画のロケ地ばかりが話題になっているようだった。

 翌朝、大和ミュージアムは9時からオープンなので、それに間に合うように出かけた。館内には戦艦大和の十分の一の模型が据え付けられていた。大きすぎる大砲を備えた巨艦、明治時代の戦争でないのに、よくこんな巨大戦艦を作ったものだとあきれた。戦艦大和は沖縄戦に特攻出撃して沈没し、戦死者は2740名にものぼった。大和のそばには零式艦上戦闘機六二型も展示されていた。資料展示室は高校の修学旅行生で混雑していた。その昔、大勢の若者の生命が平和な日本の礎となったことをしっかり理解することを願いながら、その部屋を歩いた。
 
 大和ミュージアムの向かいには、海上自衛隊呉資料館に接して大きな物体が設置されている。その物体が何かわからないまま資料館に入館した。展示室には、現在国会で質疑応答されているホルムズ海峡の機雷の除去、掃海についての歴史等々が展示されていた。入り口で潜水艦の中にも入れます、と婦人自衛官が説明してくれたが、「そう?」と首をかしげた。3階からその中に入って気づいたのだが、外で見た大きな物体はホンモノの潜水艦だったのだ。そして、今、その中に入っている。館長室、食堂、士官や乗組員のベッドなどを見た。奥に進むと、案内係が潜望鏡を覗きますかと言う。「何?潜望鏡?映画“眼下の敵”や“深く静かに潜航せよ"のあの潜望鏡?」そうだ、目の前のものが潜望鏡なのだ!覗くと港の船が見えた。案内係が「こうやって回します」と説明してくれる。すると、見える、見える。潜望鏡を覗くことができたのだ!「ここに座ってください。面舵、取り舵はこう、こうすれば上下、操舵してみてください」「軽いのですね」操舵捍も握った。満足して外に出ようと、出口でその物体を見ながら「あー、やっぱり潜水艦だ!」と感嘆したら、解説してくれた老水兵さん(退役海上自衛官)は笑っていた。「潜水艦に乗って、どの方面へ行かれたのですか?」「それは言えません」それはそうだ、軍事機密だもの。

潜水艦内の夜間照明
操舵捍を操る
 最後に伊400型潜水艦の模型を見た。5月にNHK「歴史秘話ヒストリア」で放映された「幻の巨大潜水艦伊400日本海軍の極秘プロジェクト」で取り上げられた潜水艦だ。これは世界初の潜水空母で敗戦後、アメリカ軍によって徹底的に調査された。そしてソビエトへの技術漏洩を恐れ、ハワイ近海などで沈められたが、この飛行機搭載技術はミサイル搭載技術へと開発が進んだ。現在では北朝鮮も本当かどうか分からないが、潜水艦からミサイルの発射実験をしている。伊400型の模型の側には、その艦で使われた双眼鏡がアメリカ軍の双眼鏡と並んで置いてあった。当時の日本軍の双眼鏡で帰港してきた自衛艦を見ると、白い服の士官と黒服の水兵が話をしている様子がはっきり分かったが、アメリカ軍の双眼鏡では船が入港しているとだけしか見えなかった。
陸上の潜水艦 

   この夏は敗戦から70年目の終戦記念日がくる。日本には1万年以上も争いのなかった縄文時代があるが、それに比べると70年などアッと言う間の短い期間である。その70年の間に平和をどんな形で守ったにせよ、これからも、この日本列島は上品な平和な島として、地球上のお手本となってほしい。

2015年7月9日木曜日

瀬戸内ドライブ旅 その2 愛媛県久万高原 上黒岩岩陰遺跡へ

 松山インターを降りて上黒岩遺跡考古館に電話し、今から行く旨を話すと「松山からやと40〜50分かかります」という返事があった。ここまで来て40〜50分で躊躇してはならぬと高知へ通じる国道33号線を久万高原へ向かった。途中、砥部町の国道分離帯には、大きな陶磁器が点々と据え置かれているので、砥部焼きに心惹かれたが、これまた寄り道はならぬと先を急いだ。砥部町から上り山道になり、三坂峠に完成したばかりの新しい長いトンネルを走り、そのあとはクネクネした山道を標高800mの久万高原へ40分ほどで着いた。ここは四国の軽井沢と呼ばれているそうだ。松山までの高速道から見た四国山脈の険峻さに驚いていたが、後になって西日本一高い修験の山霊峰石鎚山は、愛媛県西条市から久万高原へかけて所在すると分かり、高速道から望んだ山の急峻さと神々しさに納得した。

 上黒岩岩陰遺跡の考古館に着くと、ご婦人が待ってましたとばかりに出迎えてくれた。お出迎えに恐縮していたら、「主人が館長ですが、今日は家の普請なので、私が留守番してます」とのこと、先ほど電話した相手は館長夫人だったのだと、さらに恐縮した。質問すると「私は何もわからないので」と、言いながらも付いて回ってくださるので、こちらは少し閉口した。考古館の隣家、竹口さんの息子が土器片を見つけ、それを教育委員会に報告したのがきっかけで、この遺跡の発掘調査が始まったとのこと。素人による発見が貴重な遺物や遺跡につながることはよくある話だが、彼らの誇りは如何許りだったかと、発見した当時(1961年)は中学一年生だった竹口義照さんのことを考えた。館長夫人は、古い発掘現場の写真にある学生服姿を指差して「これが主人です。今じゃ歳とってあきません」と館長夫人は嬉しそうにちょっと得意そうに笑っていた。
石偶
 この遺跡は、「手のひらサイズの小さな石偶(ヨーロッパではよく見かける石の人像(ひとがた)で、縄文時代の土の人像「土偶」の原点と言われている)」が13体見つかったユニークな遺跡である。石偶は小さな平たい石に乳房と腰ミノが線刻されているので、女性と分かる。ウィーン自然史博物館で見たウィーレンドルフのビーナスも25,000年前の石偶ではあるが、これより手の込んだしつらえだった。


鏃の刺さった骨(鏃は外れてしまったとのこと)
 ユニークな発掘品といえば、ここには鏃(矢じり)が大腿骨に突き刺さった女性の骨が発見されている。縄文時代には戦いがなかったというのが大方の見方であるが、これいかに?縄文時代は平和な時代だったと信じている私は、多分、射た人の手が滑って人間に当たっただけ、否、ちょっと憎らしい人だったから矢を当てたのだとか想像してみた。


岩陰遺跡


館長夫人と遺跡の前で
 岩陰遺跡そのものは考古館のすぐ脇にあり、鍵を開けていただき、入ることができた。縄文時代草創期約16000年前〜縄文時代後期3000年前まで9層から11層にわたる岩盤が目の前にあった。「もっと掘るといいんですが」と館長夫人が最後に言った。「そうですね」と言いながらも、私は後世の人たちの仕事として残しておこうよと、心の中でつぶやいていた。そして、爽やか久万高原を後にし、国道33号線を松山へと下った。『つづく』