2013年9月27日金曜日

エッツィに会いに行く

 アルプスを越えるルートは幾通りかある。一番有名なのは、ナポレオンが古代カルタゴのハンニバルの真似をして越えたグラン・サン・ベルナール峠だ。実際にハンニバルが数あるアルプス越え峠のどのルートを通ったか、自分の足で検分した学者もいるが、不明のままのようだ。このベルナール峠は、セント・バーナード犬でも知られている。峠には1050年頃に聖アウグスチノ修道会が建てたホスピスがあった。セント・バーナード犬は、17世紀末頃からそこの修道士のヘルパーとして、雪山遭難者の救助など活躍をしてきた。現在は大型犬の代表として愛玩もされている。その奇特な大柄な犬が日本の小さな犬小屋で飼われているのを見た時、さすがに心が痛んだ。


 2013年7月にスイスからイタリアへ向かった際には、シンプロン峠のカートレインを利用して、峠を20分で越えた。トンネルは一直線なので正確には峠の真下は通ってはいない。ここでは2011年6月に貨物列車の火災事故が起きたが、スイス国鉄が1億5千スイスフランを投じ、今も老朽化対策工事を行っている最中だという。トンネルは1906年から列車運行を開始し、カートレインは1959年から始まった。古いトンネルだからと心配したが、何事もなく通過できてよかったと思っている。


 数多くあるアルプス越えの峠のうち、ベルナール峠と共に古代から人々が行き交った峠がブレンナー峠である。オーストリア・チロル州と「南チロル」ともいわれるイタリア・ボルツァーノ自治県を結んでいる。上記の旅の帰り道、イタリアからウィーンへのルートはスロベニア廻りにしようかと地図を見ていたら、ガルダ湖の北にボルツァーノを見つけた。「あ、そーだ!」エッツィはボルツァーノにいる、と彼のことを思い出した。日本からこんな辺鄙なところに行くのはなかなか厄介なことであるが、ドライブ旅行の帰り道に行けるのだから、行かなくてどうする。

ボルツァーノ風景
3日間楽しく過ごした北イタリアのポッツオレンゴ村を7月14日の朝に出発し、ちょっとマントヴァに寄り道してから、一路ボルツァーノに向かった。イタリア最大の湖、ガルダ湖の東を通るアウトストラーダには「ブレンナー」の標識が大きく出ていた。トリエント(ドイツ語読みのトレント)公会議で有名なトレントもこのルートにあった。この道は古代から中世・近世に渡って、地中海世界とアルプスの彼方をつなぐ重要なルートの一つだった。ブレンナー峠の麓には旧石器時代の湖上生活遺跡などが残っているが、その峠は越えず、手前のボルツァーノに到着。町は山に囲まれ、彼方には白い雪を頂いたアルプスが見えた。古い石造りの建物が威圧的に立ち並ぶ町の景観は、イタリアというよりも、どうしてもオーストリアだ。それもそのはず、ボルツァーノは第一次世界大戦までオーストリア領であった。しかし、1919年のサン・ジェルマン条約によってイタリア領となり、住民はイタリア語とドイツ語を話す。そういえば、マラヴァジワイナリーのエドに「ボルツァーノに行く」と言った時、少し怪訝な顔をしたので、「エッツィに会いに」と言うと納得した。「ボルツァーノはチロルのきれいな町だよ。住んでいる人たちは普段はドイツ系の考えをして小難しいけど、ワインを飲むとたちまちイタリア人になる。ビジネスでも、支払いの段階になるとグズグズするのもイタリア的だ」と笑っていた。
 いずれにしても、とりあえずはエッツィのいる南チロル考古学博物館(ボルツァーノ県立考古学博物館)に行かなければならない。



 エッツィって誰?
エッツィはサルディニア島系の人で、身長160cm、体重50kg、目と髪の色は茶色、肌の色は白、47才くらいで筋肉質な男性である。イタリア人にしても小さい方だが、旧石器時代の人としては標準くらい。およそ5300年前に生きていた人で、1991年9月19日にアルプス山中3210mのエッツ渓谷氷河の中で発見された。その日、エッツ渓谷付近を登山中のドイツから来たサイモン夫妻は、近道をしようと正規ルートから外れて歩いていたところ、ゴロゴロした岩だらけの雪解け水の中に、茶色のものを見つけた。近寄ってみると、うつ伏せになった人間の上半身だった。夫妻は数年前の遭難者だと思い、すぐ警察に通報した。しかし、現代人にしては持ち物などが不思議なものばかりだったので、司法解剖をする前にインスブルック大学の考古学者が駆けつけた。考古学者はそれらの持ち物は青銅器時代前期のものであると直ちにに断定した。その後、綿密な調査が行われ、彼、すなわちエッツィは、旧石器時代のミイラであると判定された。「エッツィ」という名前は発見されたイタリアとオーストリア国境のエッツ渓谷から付けられたニックネームである。“Oetzi the Iceman”というのが正式名だ。(エッツィと発音するには「O」と発音する時の口をしながら「エ」とドイツ語式にいう)


 エッツィの国籍については、ちょっとした問題が起こった。発見された場所はオーストリア領だったので、一番近いインスブルック大学に運ばれて調査研究された。しかし、第一次世界大戦後の1919年にイタリアとオーストリアに国境が引かれた折には雪で埋め尽くされていたので、「国境ははっきりしていない」とイタリアからクレームがつき、再測量した。その結果、エッツィが倒れていた場所というのは、なんと92.56mイタリア・南チロル側だった。そういう訳で、現在、エッツィはイタリア人として、南チロル考古学博物館の摂氏−6℃、湿度99%の特別室で眠っている。

 エッツィが持っていたのは純度の高い(99.7%)銅製の斧、弓矢、火おこし道具、ハーブの薬や苔などだった。羊の皮のコートを着て、羊皮のレギンスを身につけ、牛皮の靴底と熊の毛皮の靴には編んだ靴カバーも履いていた。しかも、靴には防寒用のワラが詰められていた。何といっても素敵なのは、被っていた帽子である。熊の毛皮で作られ、あご紐がついたもので、毛皮はほぼ完全に残っていた。さらに、彼の体にはツボの位置を示す入れ墨が施されていた。ツボ治療をしていたのだ。中国のツボ治療より古い!

 日本でも発見当初から話題になり、何度か紹介されている。最近では、2013年3月24日に「NHKスペシャル 完全解凍!アイスマン〜5000年前の男は語る〜」が放映された。エッツィの詳細な話はテレビや書物でも分かるようになったが、やはり百聞は一見に如かず。さあ、会いに行こう!

 エッツィの眠る南チロル考古学博物館には、エッツィが描かれたのぼり旗がヒラヒラしていた。この建物は1919年まではオーストリア国立銀行、その後1990年まではイタリア銀行だった。いかにも銀行だなという、どっしりした建物の石段を上って中に入ると、1階はエントランス、2階にエッツィの特別室があり、同じフロアには持ち物などが展示されていた。「エッツィ来たよ、グリュス・ゴット、否、ボンジョルノ」と四角い窓からのぞくと、彼は絶えず噴霧される中で、伸ばした左手をあごの下にくっつけたような不自然な格好で眠っていた。行列の中だったので、挨拶だけしてすぐそこを離れ、近くに展示されていた帽子や斧などを見た。3階に行くと、オランダ人の復元エキスパートである双子のケニス&ケニスによって見事に復元されたエッツィが立っていた。下半身は暖かそうなレギンスを付けて、ワラの詰まった革靴を履いていた。上半身は骨格筋肉を見せるために裸体だった。ウィーンの自然史博物館で見たエッツィの復元はとぼけた類人猿のような顔をしていたが、ここのエッツィは精悍な顔をしている。
 もう一度、エッツィに会うために2階の特別室に戻った。誰もいなかったので四角窓に近づくとパッとエッツィは照明に照らされた。今度はゆっくりと全体をチェックできた。5300年前の人だったのか。縄文時代と同じ年代だ。「古い時代の人間のことを、いろいろ教えてくれてありがとう、エッツィ!」







 エッツィが今、こうしていろいろ教えてくれることができるのは、彼が殺人事件に巻き込まれて殺されたからだ。単なる凍死ではなく、キラーの一撃のもとに息絶えたのだ。即死だと研究者は言う。苦しまなくてよかったね、エッツィ。