2017年3月8日水曜日

八ヶ岳縄文ワールド (その3)


昭和23年に初めて土器を掘り起こし、味をしめた武藤は、まだ他にもあるかもしれないと、翌24年に烏帽子の同じ場所の近くに出かけた。そこには畑開墾時に掘り起こされた土器片がガラガラと積み上げられていたので、すっかり嬉しくなり、地主を探し出して土器片が欲しいと頼んだ。すると、「畑の邪魔になるだけだから、いらねえ。持って行け、持って行け」と言われた。それを家の薪小屋に運び、23年積んでいたが、何とか土器の形に復元したいと思うようになり、信濃境駅前の薬局で相談した。そうして、セルロイドを2種類の酸で溶かして接着してみた。穴の開いているところは石膏で埋めた。復元したものの、見てくれの悪いのはもう一度やり直したりなど、自分で復元技術を開発した。武藤は土器の復元と土器の年代識別を独力で苦労しながら行ったが、「全ては土器から教わった」という。

原村の遺跡から出土した土器を手に説明する武藤雄六

昭和33年、町村合併で、今までの諏訪郡境村役場が場所を持て余すようになった。そこで1階前面を富士見町境支所に、その後ろ側を井戸尻考古館として整備し、2階で調査復元などが行われるようになった。そして昭和371月、藤森栄一が中心となって長野県考古学会第一回大会開催したところ、大盛況だった。昭和406月には考古館の運営が地元の保存会から教育委員会に移管され、昭和49年に現在の井戸尻考古館が井戸尻遺跡の上に開館した。


井戸尻考古館の復元家屋

この間にひとつエピソードがある。いわゆる「サントリー事件」だ。井戸尻考古館は一時期、それまで出土した土器を展示品として東京のサントリー美術館に貸し出していた。そのサントリーの重役の別荘が富士見町にあったので、重役は時々現地へ来ていたが、そのうち考古館一帯を買収して、そこから出るものを全部東京へ持って行こうと企んだ。すると、武藤の親戚がサントリー側についたりして大騒動になったが、村の衆が頑張り、サントリーに乗っ取られずに済んだ。危うく〝サントリー富士見醸造所″と〝縄文ミュージアム″ができるところだった。その後しばらくすると、富士見町の隣、山梨県北杜市白州町にサントリー白州醸造所ができた。水の良い土地、縄文の大地に狙いを定め、醸造所とバードサンクチュアリを作ったサントリーの目の付け所には感心する。


井戸尻考古館からの眺め

 藤森栄一の出身校で開かれた講演会「諏訪考古学の原点―武藤雄六と諏訪清陵地歴部の土着考古学」に出向いたのは、この地への理解を深めるのに役に立った。土着考古学の「土着」と言う言葉に最初は違和感を感じたが、そもそも考古学は地面にへばりつく学問であるから土着で正しいのだ。そして土着考古学は、その地をよく知り、愛おしむ人の手に掘られることによって生き生きとしてくる。


諏訪清陵高等学校の講演会で三上徹也と歓談する武藤雄六

その昔、八ヶ岳から霧ヶ峰にかけて火山製ガラス黒曜石が産出され、麓の八ヶ岳山麓でそれを使った矢じり(石鏃)が製作された。青森三内丸山遺跡でも発見されているように、その品質は高く、八ヶ岳ブランドとして日本列島中に広まった。現代、八ヶ岳山麓の精密機器産業は高く評価されているが、ここはまた縄文時代の先端技術の地でもあったのだ。まさに森浩一(19282013)のいう「考古学は地域に勇気を与える」は正解だ。彼は著書『地域学のすすめ』の中でこの言葉を書いている。


星ケ塔の黒曜石採掘遺跡
冷山の黒曜石原石
     
沢底の赤い石に魅せられた少年は、黒い石の存在にも興味を深め、とうとう考古学に足を踏み入れた。そして生涯を考古学研究にかけた。その土着考古学は地元に誇りと勇気と愛を与えるのは確かだ。


高原の縄文王国収穫祭
 くく舞を見たあと、みんな集合

                                    (文中敬称略)

八ヶ岳縄文ワールド (その2)

2017年1月21日、「諏訪考古学の原点 -武藤雄六と諏訪清陵地歴部の土着考古学」というテーマで、講演会が開催された。諏訪清陵高等学校地歴部考古班同期で、現在活躍中の諏訪の考古学者たち(五味一郎、高見俊樹、三上徹也)が、藤森栄一の直弟子武藤雄六を囲んで「土着考古学」の意義と未来を語りあうものであった。


八ヶ岳山麓を行く汽車ポッポの煙を眺めた幼い頃から、富士見の別荘を度々訪れ、八ヶ岳に魅かれ住み着いて17年ほどになる私は、この講演会に早速でかけた。武藤雄六は、私の所属する「縄文阿久友の会」の名誉会員で、2013年の同会創立総会で「原村は高天原」という講演を行なった。それが武藤雄六を知った最初であったが、彼は、私が想像していたコワイ人ではなく、すぐに人を惹きつける自然体の人であった。その人柄に惹かれた私は、諏訪清陵高等学校での話を中心にまとめ、武藤雄六のいままでの足跡を記したいとおもった。

武藤雄六にまつわる地名の境、池袋(いけのふくろ)、烏帽子、葛窪、新道(あらみち)、高森などは、長野県諏訪郡富士見町内の各部落名であり、富士見町境を中心におよそ35kmの範囲に収まる。富士見町内での話なので、まさに「土着考古学」である。

富士見からの八ヶ岳

  武藤雄六は、昭和
5年に長野県諏訪郡富士見町境池袋で生まれ、現在も住んでいる。幼い頃はいじめられっ子だったので、登下校時はいじめっ子たちから逃れるため、ひとりで沢の底をのぞき込んだりしていた。沢底の石を見ているうちに、赤い石に魅せられ、それを拾い続けた。赤い石は六角石(角閃石)という珍しい石であったので、噂を聞きつけた業者が買い付けに来たりした。石の勉強をするため本を買いに諏訪の博信堂へ行き、そこで店主の藤森栄一と知り合った。そのうちに藤森の家に招き入れられ、石器や土器を見せてもらったりしたが、藤森としては「無口な変な小僧」という印象だったらしい。


六角石

昭和23年に富士見町にあった諏訪農学校(現在の富士見高校)を卒業したのち、すぐに結核を患った。それで仕方なく医者の言いつけどおり、ブラブラしながら静養する日々が続いた。百姓仕事はしないで、赤い六角石や自宅近くの池袋の畑に落ちていた黒曜石の矢じりを拾って歩いていた。その頃、富士見町葛窪の親戚の家にあった『諏訪史第一巻』(鳥居龍蔵著)を読んで遺跡に興味がわき、池袋だけでなく、石器の拾える烏帽子へも出かけた。そこで矢じりを拾っていたら、何かに躓いて転んでしまった。躓いたのに腹を立て、掘り起こしたのが最初に掘った土器であった。

   昭和29年、武藤はJR中央本線信濃境駅前の農協に勤め始める。その頃、藤森栄一が富士見町新道で住居址を一軒掘り、その住居で使われていた土器一式を発掘した。それ以来、藤森栄一は富士見町高森の人々と懇意になり、境史学会(旧諏訪郡境村の史学会)を作った。境史学会には武藤の小学校の担任の先生もいたし、藤森栄一とは石つながりの顔見知りでもあったので、武藤もそこに入れてもらった。昭和31年に藤森はこの境史学会で講演をしたが、その時に「信濃境界隈にはすごい縄文の遺跡があるはずだから、ぜひ発掘しろ」と、武藤をはじめ、地元の人々をさかんにあおった。

昭和32年、「どんどん掘れ」という藤森の言葉に従い、武藤らが掘る場所を探していると、現在は井戸尻遺跡の復元家屋の建っている場所を運よく昭和333月から掘らせてもらえることになった。ところが、藤森栄一は戦争で出兵中にかかったマラリアを発症して寝込んでしまった。すると、「自分の代わりに尖石の宮坂英弌から発掘の指導を受けるように」と藤森から指示があった。お酒の好きな宮坂英弌のもとに一升ビンを2本持参して頼み込み、やがて発掘が始まった。

宮坂英弌は、この発掘について記録を取り、調査書を作るようにと武藤に指示したが、武藤はそれまでそういう経験がなく、途方に暮れた。そこでまず、高森公民館で遺物の整理をし、区長に頼んで現場の写真を撮影してもらった。測量もしなくてはならず、これは地元の技師に頼んだ。発掘作業そのものは、「苦労(しんどいこと)はしたくない」と若者にそっぽを向かれたので、池袋の年寄ばかりで行った。しかし、年寄には重労働だったので、宮坂英弌が若い諏訪清陵高校の生徒に手伝いを頼んでくれた。それがきっかけで諏訪清陵高校地歴部と武藤との関わりができたのだった。




八ヶ岳縄文ワールド (その1)


 『信州の縄文時代が実はすごかったという本』が20172月に出版された。著者は藤森英二だ。〝一時的に在庫切れ、入荷時期未定″のAmazonは諦め、地元(富士見町)の本屋に電話して有無を確認すると、「ある」というので、すぐ買った。やはり信州はこの本の発行元「信濃毎日新聞」の地元だから、「すごい、揃えている」と思った!地元といえば、藤森英二の祖父藤森栄一(19111973)は、信州ではみんな知っている有名な考古学者である。


 この本は写真やイラストが多く、若い考古学者のセンスで書かれている。これなら日本はもちろん、世界中の人が読んでも、日本の縄文時代を理解できる。また、縄文遺跡が山麓をぐるりと囲む、縄文の宝庫八ヶ岳の観光ガイドブックとしても役に立つ。



 八ヶ岳縄文ワールドで最も有名な遺跡は尖石遺跡であり、そこに建つ茅野市尖石縄文考古館は国宝土偶2体を所蔵している。縄文時代に、土で作られたヒトガタ「土偶」の日本全国出土数は18000体ほどである。そのうち5体のみが国宝に指定されており、その2体が八ヶ岳山麓にあるということは、この地の縄文時代の煌めきのスゴさを表しているとおもう。

国宝 縄文のビーナス

国宝 仮面の女神




















 

 八ヶ岳は、約200万年前~1万年前までの間に盛衰を繰り返した古い火山群であった。山裾が雄大に広がり、日当たりがよいために人が住むのに適していたが、それだけではない。火山は天然のガラス黒曜石を産出した。だから、旧石器時代からこの優れた石材を求めて人々が集まり、住み着くようになった。山梨県から長野県にかけての八ヶ岳山麓に、縄文遺跡が連なるように存在するのがその証拠だ。

諏訪湖からの八ヶ岳
 長野県茅野市尖石縄文考古館は、縄文時代の遺跡発掘調査で日本をリードした機関として位置づけられている。日本考古学の草分けである鳥居龍蔵(18701953)は、モースの発見した海岸地帯の貝塚だけでなく「山を見よ」と中部高地での考古学調査の重要性を早くから指摘し、『諏訪史第一巻』を著した。その後、鳥居の影響と諏訪地方の学識者たちによって、石鏃(ヤジリ)をはじめとする石器の研究が進んでいった。そうした中、考古学好きの皇族伏見宮博英(19121943)が茅野市豊平の尖石遺跡の発掘調査を行った。それを手伝ったのが宮坂英弌(18871975)だった。このことがきっかけとなって、宮坂は尖石遺跡の発掘にのめり込んでいき、諏訪考古学の先達となったわけだが、一介の教師で、貧しく厳しい生活環境の中、家族を犠牲にしながらも地道な調査を続けた。そして、出土した数々の土器を収蔵·展示する場所として尖石館を作り、それが後の茅野市尖石縄文考古館となった。尖石遺跡は宮坂英弌の調査の成果として、日本で最初に確認された縄文時代の住居址遺跡である。

 若い伏見宮のお相手として、発掘調査には諏訪中学地歴部仲間の若者3人が選ばれて参加した。その中に藤森栄一(19111973)がいた。彼はその後、家業の本屋を継ぐために東京への進学を諦めたが、終生考古学と共に生き続けた。諏訪湖底に沈んだ曽根遺跡を調べ、八ヶ岳西南麓富士見町にある井戸尻遺跡とその周辺遺跡の発掘調査を行った。そうした調査を母校の諏訪中学(現在の諏訪清陵高等学校)地歴部の生徒たちと共に行い、その中から彼の後継者となる大勢の考古学者を輩出した。また、藤森栄一は優れた執筆家で、多くの本を著しているが、その著書は常に生身の人間への愛情に貫かれている。彼の周辺の人々、そして遥か古に生きた人々への優しさがにじみ出ている。

藤森栄一の指導のもと、地元の遺跡発掘調査に励み、独学で考古学の領域を極めた人に武藤雄六がいる。彼は生まれ育った長野県諏訪郡富士見町境にある井戸尻遺跡の発掘調査とその保存を地域の人々と共にすすめ、井戸尻考古館の初代館長となった。