2017年3月8日水曜日

八ヶ岳縄文ワールド (その1)


 『信州の縄文時代が実はすごかったという本』が20172月に出版された。著者は藤森英二だ。〝一時的に在庫切れ、入荷時期未定″のAmazonは諦め、地元(富士見町)の本屋に電話して有無を確認すると、「ある」というので、すぐ買った。やはり信州はこの本の発行元「信濃毎日新聞」の地元だから、「すごい、揃えている」と思った!地元といえば、藤森英二の祖父藤森栄一(19111973)は、信州ではみんな知っている有名な考古学者である。


 この本は写真やイラストが多く、若い考古学者のセンスで書かれている。これなら日本はもちろん、世界中の人が読んでも、日本の縄文時代を理解できる。また、縄文遺跡が山麓をぐるりと囲む、縄文の宝庫八ヶ岳の観光ガイドブックとしても役に立つ。



 八ヶ岳縄文ワールドで最も有名な遺跡は尖石遺跡であり、そこに建つ茅野市尖石縄文考古館は国宝土偶2体を所蔵している。縄文時代に、土で作られたヒトガタ「土偶」の日本全国出土数は18000体ほどである。そのうち5体のみが国宝に指定されており、その2体が八ヶ岳山麓にあるということは、この地の縄文時代の煌めきのスゴさを表しているとおもう。

国宝 縄文のビーナス

国宝 仮面の女神




















 

 八ヶ岳は、約200万年前~1万年前までの間に盛衰を繰り返した古い火山群であった。山裾が雄大に広がり、日当たりがよいために人が住むのに適していたが、それだけではない。火山は天然のガラス黒曜石を産出した。だから、旧石器時代からこの優れた石材を求めて人々が集まり、住み着くようになった。山梨県から長野県にかけての八ヶ岳山麓に、縄文遺跡が連なるように存在するのがその証拠だ。

諏訪湖からの八ヶ岳
 長野県茅野市尖石縄文考古館は、縄文時代の遺跡発掘調査で日本をリードした機関として位置づけられている。日本考古学の草分けである鳥居龍蔵(18701953)は、モースの発見した海岸地帯の貝塚だけでなく「山を見よ」と中部高地での考古学調査の重要性を早くから指摘し、『諏訪史第一巻』を著した。その後、鳥居の影響と諏訪地方の学識者たちによって、石鏃(ヤジリ)をはじめとする石器の研究が進んでいった。そうした中、考古学好きの皇族伏見宮博英(19121943)が茅野市豊平の尖石遺跡の発掘調査を行った。それを手伝ったのが宮坂英弌(18871975)だった。このことがきっかけとなって、宮坂は尖石遺跡の発掘にのめり込んでいき、諏訪考古学の先達となったわけだが、一介の教師で、貧しく厳しい生活環境の中、家族を犠牲にしながらも地道な調査を続けた。そして、出土した数々の土器を収蔵·展示する場所として尖石館を作り、それが後の茅野市尖石縄文考古館となった。尖石遺跡は宮坂英弌の調査の成果として、日本で最初に確認された縄文時代の住居址遺跡である。

 若い伏見宮のお相手として、発掘調査には諏訪中学地歴部仲間の若者3人が選ばれて参加した。その中に藤森栄一(19111973)がいた。彼はその後、家業の本屋を継ぐために東京への進学を諦めたが、終生考古学と共に生き続けた。諏訪湖底に沈んだ曽根遺跡を調べ、八ヶ岳西南麓富士見町にある井戸尻遺跡とその周辺遺跡の発掘調査を行った。そうした調査を母校の諏訪中学(現在の諏訪清陵高等学校)地歴部の生徒たちと共に行い、その中から彼の後継者となる大勢の考古学者を輩出した。また、藤森栄一は優れた執筆家で、多くの本を著しているが、その著書は常に生身の人間への愛情に貫かれている。彼の周辺の人々、そして遥か古に生きた人々への優しさがにじみ出ている。

藤森栄一の指導のもと、地元の遺跡発掘調査に励み、独学で考古学の領域を極めた人に武藤雄六がいる。彼は生まれ育った長野県諏訪郡富士見町境にある井戸尻遺跡の発掘調査とその保存を地域の人々と共にすすめ、井戸尻考古館の初代館長となった。
                          

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