2017年3月8日水曜日

八ヶ岳縄文ワールド (その2)

2017年1月21日、「諏訪考古学の原点 -武藤雄六と諏訪清陵地歴部の土着考古学」というテーマで、講演会が開催された。諏訪清陵高等学校地歴部考古班同期で、現在活躍中の諏訪の考古学者たち(五味一郎、高見俊樹、三上徹也)が、藤森栄一の直弟子武藤雄六を囲んで「土着考古学」の意義と未来を語りあうものであった。


八ヶ岳山麓を行く汽車ポッポの煙を眺めた幼い頃から、富士見の別荘を度々訪れ、八ヶ岳に魅かれ住み着いて17年ほどになる私は、この講演会に早速でかけた。武藤雄六は、私の所属する「縄文阿久友の会」の名誉会員で、2013年の同会創立総会で「原村は高天原」という講演を行なった。それが武藤雄六を知った最初であったが、彼は、私が想像していたコワイ人ではなく、すぐに人を惹きつける自然体の人であった。その人柄に惹かれた私は、諏訪清陵高等学校での話を中心にまとめ、武藤雄六のいままでの足跡を記したいとおもった。

武藤雄六にまつわる地名の境、池袋(いけのふくろ)、烏帽子、葛窪、新道(あらみち)、高森などは、長野県諏訪郡富士見町内の各部落名であり、富士見町境を中心におよそ35kmの範囲に収まる。富士見町内での話なので、まさに「土着考古学」である。

富士見からの八ヶ岳

  武藤雄六は、昭和
5年に長野県諏訪郡富士見町境池袋で生まれ、現在も住んでいる。幼い頃はいじめられっ子だったので、登下校時はいじめっ子たちから逃れるため、ひとりで沢の底をのぞき込んだりしていた。沢底の石を見ているうちに、赤い石に魅せられ、それを拾い続けた。赤い石は六角石(角閃石)という珍しい石であったので、噂を聞きつけた業者が買い付けに来たりした。石の勉強をするため本を買いに諏訪の博信堂へ行き、そこで店主の藤森栄一と知り合った。そのうちに藤森の家に招き入れられ、石器や土器を見せてもらったりしたが、藤森としては「無口な変な小僧」という印象だったらしい。


六角石

昭和23年に富士見町にあった諏訪農学校(現在の富士見高校)を卒業したのち、すぐに結核を患った。それで仕方なく医者の言いつけどおり、ブラブラしながら静養する日々が続いた。百姓仕事はしないで、赤い六角石や自宅近くの池袋の畑に落ちていた黒曜石の矢じりを拾って歩いていた。その頃、富士見町葛窪の親戚の家にあった『諏訪史第一巻』(鳥居龍蔵著)を読んで遺跡に興味がわき、池袋だけでなく、石器の拾える烏帽子へも出かけた。そこで矢じりを拾っていたら、何かに躓いて転んでしまった。躓いたのに腹を立て、掘り起こしたのが最初に掘った土器であった。

   昭和29年、武藤はJR中央本線信濃境駅前の農協に勤め始める。その頃、藤森栄一が富士見町新道で住居址を一軒掘り、その住居で使われていた土器一式を発掘した。それ以来、藤森栄一は富士見町高森の人々と懇意になり、境史学会(旧諏訪郡境村の史学会)を作った。境史学会には武藤の小学校の担任の先生もいたし、藤森栄一とは石つながりの顔見知りでもあったので、武藤もそこに入れてもらった。昭和31年に藤森はこの境史学会で講演をしたが、その時に「信濃境界隈にはすごい縄文の遺跡があるはずだから、ぜひ発掘しろ」と、武藤をはじめ、地元の人々をさかんにあおった。

昭和32年、「どんどん掘れ」という藤森の言葉に従い、武藤らが掘る場所を探していると、現在は井戸尻遺跡の復元家屋の建っている場所を運よく昭和333月から掘らせてもらえることになった。ところが、藤森栄一は戦争で出兵中にかかったマラリアを発症して寝込んでしまった。すると、「自分の代わりに尖石の宮坂英弌から発掘の指導を受けるように」と藤森から指示があった。お酒の好きな宮坂英弌のもとに一升ビンを2本持参して頼み込み、やがて発掘が始まった。

宮坂英弌は、この発掘について記録を取り、調査書を作るようにと武藤に指示したが、武藤はそれまでそういう経験がなく、途方に暮れた。そこでまず、高森公民館で遺物の整理をし、区長に頼んで現場の写真を撮影してもらった。測量もしなくてはならず、これは地元の技師に頼んだ。発掘作業そのものは、「苦労(しんどいこと)はしたくない」と若者にそっぽを向かれたので、池袋の年寄ばかりで行った。しかし、年寄には重労働だったので、宮坂英弌が若い諏訪清陵高校の生徒に手伝いを頼んでくれた。それがきっかけで諏訪清陵高校地歴部と武藤との関わりができたのだった。




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