2014年3月15日土曜日

「北方のバラ」チェンマイに咲いたランナー文化 No.1

ランナー王国とその文化について


チェンマイのバラ

 タイ王国の「北方のバラ」と称えられる美しい古都チェンマイは、13世紀にチェンライ王国のマンラーイ王が作ったランナー王国の都である。そこから同王国の歴史が始まったのだが、その前に、マンラーイは、その地にあったハリプンチャイ王国を征服しなければならなかった。

タイ王国の北部山岳地帯

  タイ民族は中国の最南部雲南より徐々に南下してきた民族である。8世紀タイ民族の一つタイユアン族はチャンセーン(タイのラオス国境の町)に国を作ったが、13世紀、モンゴル帝国による雲南遠征の脅威により、さらに南下してチェンライ王国を作った。国が大きくなるにつれ、チェンライは防備に不向きになったので、時の国王マンラーイは、さらに南200kmほどの地点、ランプーンを都として栄えていたモン族のハリプンチャイ王国に注目し、策略を用いてハリプンチャイ王国を滅ぼしたのだった。

  
今回はまず、このハリプンチャイ王国について記してみたい。

ハリプンチャイ王国


  タイの中南部ロプブリーには、6世紀から11世紀にかけてモン族の国ドヴァーラヴァティー王国が栄えていた。モン族は4世紀頃に東南アジアに到達していた民族で、ドヴァーラヴァティー王国を作り、インドのアショカ王より伝わった上座部仏教を受け入れ、信仰していた。当時、ドヴァーラヴァティー王国(曼荼羅的な支配形態の国であった)の勢力は、タイの北部から東北部にまで及んでいたという。(ドヴァーラヴァティーは仏教美術の一様式としても有名である)




  ドヴァーラヴァティーの僧侶は、タイ北部へチャオプラヤ川から支流ピン川を遡って布教活動を行い、ランプーンの町を作った。そして僧侶たちは政治的な統治者が必要になり、故郷のドヴァーラヴァティー王国に相談した。するとドヴァーラヴァティー王国は、支配下にあったラヴォー国の姫を大勢の家臣や僧侶と共にランプーンに遣わした。姫は女王となってハリプンチャイ王国の礎を築いたと云われている。
  女王の名前はチャマディヴィと言い、絶世の美女で、勇気があった。現在、チャマディヴィ女王の銅像がランプーンの町中に堂々とした姿で立っており、今でも市民の崇敬の的になっている。ランプーンのワット・プラタート・ハリプンチャイ寺院は女王の宮殿跡に建てられ、タイ王室が参拝する大変格式の高い寺院である。

ワット・プラタート・ハリプンチャイ


チャマディヴィ女王の伝説


チャマディヴィ女王像

  18世紀のランナー王国の哲学者クライスリ・ニマンへミンは、ハリプンチャイ王国の神話や伝説そして歴史をまとめているが、チャマディヴィ女王について以下のように書いている。
  チャマディヴィは幼い頃、仏像の前に置かれた灯明を跨いだ罰として、体臭のきつい人間になってしまった。その悪臭はひどいもので、20km先まで臭ったという。しかし、モン族特有の色白美人チャマディヴィは、野蛮な原住民のラワ族長を魅惑し、彼はチャマディヴィに求婚を迫った。困ったチャマディヴィは一計を案じた。東南アジアでは頭部は神聖で犯さざれぬものであるので(タイでは子どもの頭をなでることは厳禁)、チャマディヴィは自分の下着を縫い込んだ繻子の豪華な帽子を作り、その族長ヴィランガに贈った。喜んだヴィランガがそれを被った途端、彼の精神力は萎え、自分の投げた槍に当たって死んでしまったという。
  このようにチャマディヴィは暴力には知略で立ち向かい、未開の森林を整備し、狩猟採集から稲作農耕へ、そして仏教を広めた名君主であった。(つづく)


ロイクラトーン祭り
ランナー時代、ランプーンに住むモン族は、故郷である下流ロップブリーのモン族の無事を祈り
灯籠を流したのを記念に始まった祭りがロイクラトーンと云われている。最近は
ロケット花火が盛んに打ち上げられ、幻想的に夜空を彩る。     

                         

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