2013年5月11日土曜日

秘境 秋山郷

 “縄文阿久友の会”の仲間で織物を研究している人に、津南町の「なじょもん」にアンギンと蓑の展示を見に行かないかと誘われました。豪雪地帯の津南!それに「なじょもん」ってなにもん?「蓑って時代劇に出てくるみすぼらしい雨具じゃない?」と思うと、行く気はしませんでした。しかも6月には津南の隣の十日町、長岡への「縄文ロマンの旅」が予定に入っています。

 ところが他に誰も行かないと聞いたとたん、天邪鬼が頭をもたげるました。織り人さんに電話して、天気のよいうちに行こうと、翌日(5月8日)決行が即決まりました。津南町は信濃川火焔街道の入り口(出口?)にあり、「なじょもん」農と縄文体験実習館と津南町歴史民俗資料館に行けば火焔土器を見れるし、アンギンも見ておきたいし。



























 軽い気持ちで出かけましたが、「なじょもん」で見た蓑は、エジプトのファラオの胸当てやインカの羽飾りを連想させるもにでした。意表を突かれたと同時に、圧倒されました。ただの草で編んだものなのに、あの豪華さは何なんでしょう。豪雪地帯での冬の仕事の産物なのでしょうか、労苦を惜しまず作り上げた人々の心根は、火焔土器を作った人々の心情と相通じるところがあるようです。火焔土器は装飾過多ではないかと思っていましたが、そうではなくその地の人たちの性質が現れているものだと感じました。6月に長岡、国宝火焔土器類のある十日町に行くのがさらに楽しみになりました。


 明日は私が運転して行くので予習をしなくてはと、地図を見たり、津南のことを調べたりしていると面白いサイトにぶつかりました。「津南まるごと博物館」というものです。その中に「歴史ロマン」という項目があり、何気なく読んでいると津南町出身の石田吉貞文学博士(1890〜1987)の文章が記されていました。「谷内、赤沢の地には1千年ばかり前に京都から非常に身分の高い皇族、貴族達が来て、およそ300年間住み続けました。そして谷内の地に七堂伽藍のお寺がありました、、、、、、」保元の乱(1156年)で敗れた皇族公家武士たちは上州の新田氏を頼り、津南の赤沢平に落ちのびた人たちは3,000人くらいもいたそうです。彼らは荘園経営で暮らしていましたが、今度は新田氏が足利氏に敗れたので、新田氏の庇護のもとにあった公家たちは一部をのぞき、秋山の渓谷へなだれ落ちたということです。過酷な自然にさらされ、飢えと寒さで凍え、秋山郷で生き残った人たちはわずかだったのです。江戸時代1828年塩沢の人、鈴木牧之(1770〜1842)が十二峠を越えて秋山郷を探訪し、「北越雪譜」「秋山紀行」に記録を残しています。そこには貧しいながらも京都公家の風習を守り、気品や誇りを失うことなく暮らしている人々の様子が書かれているそうです。

 秋山郷に住む人々は平家の落人ではなく、保元の乱で敗れた皇族や藤原氏の末裔だということに妙に納得した私は、時間があれば一目でも秋山郷を見たくなりました。その話に織り人さんはすぐ乗ってくれました。津南町歴史民俗資料館で秋山郷の素朴とは決して言えない豪壮で重厚な雪用具、狩猟用具などの国重要文化財の民具を見た後、さらに奥を目指して、秋山郷へと入りました。

 以前、豊橋から飯田まで153号線を走り、山道の運転に慣れている私は、初めはこんなものかとたかをくくっていました。しかし、そのうちに奥三河などは問題外と思い知らされました。急カーブに続くカーブ。最近はカーブでも猛スピードで対向車めがけて突っ込んでくるバカな運転手がいますし、ふと下を見ると、とてつもない深い谷底です。京の公達たちが転げ落ちるように谷底へと逃げて行った悲惨なさまが頭を過りました。


 秋山郷は新潟県と長野県に跨がっており、今回は新潟県側の半分の地点までしか行けませんでした。一目だけでなくかなり見たのですが、運転と写真撮影は両立せず秋山郷を目に焼き付けてきました。大急ぎの秋山行でしたが、上品な老婦人がいた土産物店で、地酒を買うのは忘れませんでした。

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