2015年7月25日土曜日

瀬戸内ドライブ旅 その3 松山ー尾道ー呉

  愛媛県久万高原にある上黒岩岩陰遺跡から、山を下って松山市内に入った。上黒岩岩陰遺跡は今から50年前列島改造論で日本が掘り返される前に発見された遺跡なので、考古学界もまだ静かな頃だった。この遺跡は、1961年から1970年まで5次にわたって発掘調査されたが、2009年に再調査が行われ、整理報告書も刊行され、遺跡の重要性が再確認されている。その考古館の鄙びた佇まいは、昔の長野県茅野市尖石縄文考古館などを彷彿とさせた。上黒岩岩陰遺跡で思いのほか時間をすごしたので、松山城には上がらず、城下町をチラと見ただけで、私にとっては夏目漱石の『坊っちゃん』ではなく『坂の上の雲』の秋山参謀の町、松山を後にした。

   その夜の宿泊地は尾道にあった。今治から「しまなみ海道」の島をつなぐ橋から橋へと、ひたすら雨の中を走った。この辺りは和田竜著『海賊の娘』の舞台となった村上水軍根拠地だと、雨にそぼる島影を追った。

   当初の予定では、尾道でゆっくり坂を散歩しようと計画していたが、寄り道したために着いたのは午後7時近くだったので、坂道歩きは止めた。予約していたグリーンヒルホテルは名前とは違い、平地の尾道駅近くで、部屋の窓から下を見るとそこは波止場、波がチャプチャプ打ち寄せていた。目を上げると、さっき横切ってきた向島が見えた。尾道の波止場と向島の間では、小さい渡しフェリーが行ったり来たりしていた。高校生たちも列をなして乗ったり降りたりしている港町の日常風景に心を動かされ、尾道の坂を登らなくてもこれでいいとおもった。尾道は長崎を縮小したような町で、想像していた鄙びた尾道とは違った。林芙美子はもう遠い昔のことなのか、最近の映画のロケ地ばかりが話題になっているようだった。

 翌朝、大和ミュージアムは9時からオープンなので、それに間に合うように出かけた。館内には戦艦大和の十分の一の模型が据え付けられていた。大きすぎる大砲を備えた巨艦、明治時代の戦争でないのに、よくこんな巨大戦艦を作ったものだとあきれた。戦艦大和は沖縄戦に特攻出撃して沈没し、戦死者は2740名にものぼった。大和のそばには零式艦上戦闘機六二型も展示されていた。資料展示室は高校の修学旅行生で混雑していた。その昔、大勢の若者の生命が平和な日本の礎となったことをしっかり理解することを願いながら、その部屋を歩いた。
 
 大和ミュージアムの向かいには、海上自衛隊呉資料館に接して大きな物体が設置されている。その物体が何かわからないまま資料館に入館した。展示室には、現在国会で質疑応答されているホルムズ海峡の機雷の除去、掃海についての歴史等々が展示されていた。入り口で潜水艦の中にも入れます、と婦人自衛官が説明してくれたが、「そう?」と首をかしげた。3階からその中に入って気づいたのだが、外で見た大きな物体はホンモノの潜水艦だったのだ。そして、今、その中に入っている。館長室、食堂、士官や乗組員のベッドなどを見た。奥に進むと、案内係が潜望鏡を覗きますかと言う。「何?潜望鏡?映画“眼下の敵”や“深く静かに潜航せよ"のあの潜望鏡?」そうだ、目の前のものが潜望鏡なのだ!覗くと港の船が見えた。案内係が「こうやって回します」と説明してくれる。すると、見える、見える。潜望鏡を覗くことができたのだ!「ここに座ってください。面舵、取り舵はこう、こうすれば上下、操舵してみてください」「軽いのですね」操舵捍も握った。満足して外に出ようと、出口でその物体を見ながら「あー、やっぱり潜水艦だ!」と感嘆したら、解説してくれた老水兵さん(退役海上自衛官)は笑っていた。「潜水艦に乗って、どの方面へ行かれたのですか?」「それは言えません」それはそうだ、軍事機密だもの。

潜水艦内の夜間照明
操舵捍を操る
 最後に伊400型潜水艦の模型を見た。5月にNHK「歴史秘話ヒストリア」で放映された「幻の巨大潜水艦伊400日本海軍の極秘プロジェクト」で取り上げられた潜水艦だ。これは世界初の潜水空母で敗戦後、アメリカ軍によって徹底的に調査された。そしてソビエトへの技術漏洩を恐れ、ハワイ近海などで沈められたが、この飛行機搭載技術はミサイル搭載技術へと開発が進んだ。現在では北朝鮮も本当かどうか分からないが、潜水艦からミサイルの発射実験をしている。伊400型の模型の側には、その艦で使われた双眼鏡がアメリカ軍の双眼鏡と並んで置いてあった。当時の日本軍の双眼鏡で帰港してきた自衛艦を見ると、白い服の士官と黒服の水兵が話をしている様子がはっきり分かったが、アメリカ軍の双眼鏡では船が入港しているとだけしか見えなかった。
陸上の潜水艦 

   この夏は敗戦から70年目の終戦記念日がくる。日本には1万年以上も争いのなかった縄文時代があるが、それに比べると70年などアッと言う間の短い期間である。その70年の間に平和をどんな形で守ったにせよ、これからも、この日本列島は上品な平和な島として、地球上のお手本となってほしい。

2015年7月9日木曜日

瀬戸内ドライブ旅 その2 愛媛県久万高原 上黒岩岩陰遺跡へ

 松山インターを降りて上黒岩遺跡考古館に電話し、今から行く旨を話すと「松山からやと40〜50分かかります」という返事があった。ここまで来て40〜50分で躊躇してはならぬと高知へ通じる国道33号線を久万高原へ向かった。途中、砥部町の国道分離帯には、大きな陶磁器が点々と据え置かれているので、砥部焼きに心惹かれたが、これまた寄り道はならぬと先を急いだ。砥部町から上り山道になり、三坂峠に完成したばかりの新しい長いトンネルを走り、そのあとはクネクネした山道を標高800mの久万高原へ40分ほどで着いた。ここは四国の軽井沢と呼ばれているそうだ。松山までの高速道から見た四国山脈の険峻さに驚いていたが、後になって西日本一高い修験の山霊峰石鎚山は、愛媛県西条市から久万高原へかけて所在すると分かり、高速道から望んだ山の急峻さと神々しさに納得した。

 上黒岩岩陰遺跡の考古館に着くと、ご婦人が待ってましたとばかりに出迎えてくれた。お出迎えに恐縮していたら、「主人が館長ですが、今日は家の普請なので、私が留守番してます」とのこと、先ほど電話した相手は館長夫人だったのだと、さらに恐縮した。質問すると「私は何もわからないので」と、言いながらも付いて回ってくださるので、こちらは少し閉口した。考古館の隣家、竹口さんの息子が土器片を見つけ、それを教育委員会に報告したのがきっかけで、この遺跡の発掘調査が始まったとのこと。素人による発見が貴重な遺物や遺跡につながることはよくある話だが、彼らの誇りは如何許りだったかと、発見した当時(1961年)は中学一年生だった竹口義照さんのことを考えた。館長夫人は、古い発掘現場の写真にある学生服姿を指差して「これが主人です。今じゃ歳とってあきません」と館長夫人は嬉しそうにちょっと得意そうに笑っていた。
石偶
 この遺跡は、「手のひらサイズの小さな石偶(ヨーロッパではよく見かける石の人像(ひとがた)で、縄文時代の土の人像「土偶」の原点と言われている)」が13体見つかったユニークな遺跡である。石偶は小さな平たい石に乳房と腰ミノが線刻されているので、女性と分かる。ウィーン自然史博物館で見たウィーレンドルフのビーナスも25,000年前の石偶ではあるが、これより手の込んだしつらえだった。


鏃の刺さった骨(鏃は外れてしまったとのこと)
 ユニークな発掘品といえば、ここには鏃(矢じり)が大腿骨に突き刺さった女性の骨が発見されている。縄文時代には戦いがなかったというのが大方の見方であるが、これいかに?縄文時代は平和な時代だったと信じている私は、多分、射た人の手が滑って人間に当たっただけ、否、ちょっと憎らしい人だったから矢を当てたのだとか想像してみた。


岩陰遺跡


館長夫人と遺跡の前で
 岩陰遺跡そのものは考古館のすぐ脇にあり、鍵を開けていただき、入ることができた。縄文時代草創期約1万6000年前〜縄文時代後期3000年前まで9層から11層にわたる岩盤が目の前にあった。「もっと掘るといいんですが」と館長夫人が最後に言った。「そうですね」と言いながらも、私は後世の人たちの仕事として残しておこうよと、心の中でつぶやいていた。そして、爽やか久万高原を後にし、国道33号線を松山へと下った。『つづく』

2015年6月30日火曜日

瀬戸内ドライブ旅 その1 京都〜松山

瀬戸内ドライブ旅 その1

 行楽シーズンの端境期である梅雨入り前は、旅をするには最適だとおもう。西に向けての旅に出発した5月末日は快晴で、高速道路はガラ空きだし、いつもは混む日曜日の京都も静かなものだった。
濱登久
 八ヶ岳西南麓富士見を7時に出発し、中央道から名神高速道路に入り、京都東インターで降り、東山浄苑で両親のお墓参りをした。そして、昼食にキツネうどんをいただいた。お墓でキツネうどん? 東山浄苑の「濱登久」は法事などで利用できる本格日本料理なのだが、ここのお揚げさんの味付けが、まことに上品で美味しい。そのお揚げさんの入っているキツネうどんをお墓参りの時には必ずいただくと私は決めている。
東山浄苑本堂
 東山浄苑は、真宗大谷派(東本願寺)から分かれた本願寺文化興隆財団が経営する墓苑である。納骨仏壇堂は、風雨が強くても地下の駐車場からエレベーターで上階へ進み、快適にお墓参りができ、しかも場所は京都東山ときているので、交通の便はよく自然豊かである。その日は新緑が東山の青空に映え、清々しく爽やかなで気持がよかった。父が長男なら和歌山市までお墓参りに行かなくてはならないけれど、四男だったから、こんな便利な快適な場所にお墓を作ってくれたことは、よかったと来る度に感謝している。好物のキツネうどんもあるし。

納骨仏壇 
  京都東山を後にし、弟がいる岡山県玉野市へ行くために、京都の町中を通過して京都南インターから高速道路に乗ったが、京都市中の道も驚くほど車は少なく静かだった。

 このたびの瀬戸内の旅は、弟の「大和ミュージアムに行ってきたら?」というひと言から始まった。それは弟たちの気に入りの日本料理「おく村」へ行ったことがきっかけだった。そこは広島県福山市にあった。福山なんて遠いところと思っていたのが、弟の住む岡山県玉野市からは1時間ほど、いつも連れて行ってくれる赤磐市(岡山市の隣)の鮨「ひさ田」へ行く時間とどっこいどっこいだったのには驚いた。「ひさ田」は全国的にも有名な寿司店で岡山県吉田牧場のモッツァレラなどを握ってくれるが、意表をついたものを得意としているわけではない。気さくな鮨マスターは清酒のチョイスもよく、ワインもお鮨にあったものをグラスワインで選んでくれるのはうれしい。今回行った福山の「おく村」は京都出身の板前マスターでまだ若いが料理のセンスはとてもよく、これからが楽しみな店と感じた。
「おく山」にて
   弟の一言に続いて、大和ミュージアムのある呉までのルートもすぐ頭に浮かんだ。宿泊している玉野市渋川海岸にある「ダイヤモンド瀬戸内マリンホテル」から20分ほどの鷲羽山麓から「瀬戸大橋」を渡り、四国の自動車道を走って、「しまなみ海道」の幾つもの島を渡る橋を通り、尾道で一泊すると、軍港呉はすぐだと、考えを実行に移した。
 
瀬戸大橋が真正面に見える渋川海岸
 「天気晴朗ナレドモ波高シ」秋山参謀が打電させた有名な電文である。バルチック艦隊を撃破した東郷元帥の話など戦記ものは、叔父たちが集めた講談社の絵本を小さい頃に読みあさって親しんだものだ。そういえば、絵本はたくさんあったけれど、積み上げられていた本は「爆弾三勇士」「白瀬大佐の杉野はいずこ」などで、女の子用のはなかったなどと、車の中で思い出していた。瀬戸大橋を渡り、松山道を走っている時、ここまで来たならちょっと足を伸ばして、秋山参謀の故郷松山城を見たいとドライバーにお願いした。ドライバーは「松山ならさらに足を伸ばしたいところがあるだろう」と言う。そうなのだ、軍国少女は、今は考古学バアさんになっていたのを思い出した。松山から60キロほどの久万高原には縄文時代早期・草創期の「上黒岩岩陰遺跡」がある。「行こう!」『つづく』



2015年5月13日水曜日

アンデスにひかれてマメ探し

 長野県原村にある縄文阿久友の会に入ってしばらく経った2012年1月、レプリカ法の講習会があると聞いた。何でも東大アンデス調査隊に参加したことのある先生が講習するという。なぬ、それは1960年代に泉靖一が率いたアンデス調査団だ。中学生の頃からインカ帝国に興味を持っていた私は、インカ、アンデスと聞くと直ちに反応するタチだったので、マチュピチュを発見したハイラム・ビンガム、東大アンデス調査団の泉靖一、実業家でインカ文化研究者天野芳太郎は憧れの人たちだった。
天野芳太郎との大切な写真
1967年10月、夫の仕事でペルーに行くことができた。現地では魚網関係の仕事をしていた高橋さんにお目にかかり、インカに興味があるのでマチュピチュにも行きたいなどと話をしたら、天野さんとは懇意だからと、すぐにアポイントを取り天野博物館へ案内してくださった。
 クスコのミラフローレスは高級住宅街で、そこに天野さんのお宅と博物館があった。昼下がりの訪問だったので、天野さんはシエスタ中、しばらく待っているとお出ましになった。博物館を自ら案内してくださったが、途中で丸紅の副社長夫妻が来訪したので、その間私にインカの織物がびっしりつまっている棚の引き出しを自由に開けて見ているように言われた。「勝手に開けて見てよい」ということに感激しまくって、端から端まで開けてみた。そしてもちろん、天野さんの解説も心に残っている。「インカ帝国は素晴らしい社会だったのですよ。きれいなピラミッドを形成した社会でしたが、上の者が下の者を搾取などせず、富を分配し、共同して平和な社会を作っていたのです。素晴らしい社会を」
天野さんが黄金製品のことよりも石の巨大建築物、ピカピカに光る土器のことよりもインカの人々が生きた社会の素晴らしさについて、目を輝かせながら話してくださったのを決して忘れない。遺物をみることによってそれを作り、使った生身の人たちを見ることの大切さを学んだ。
 天野博物館を辞去する時はすでに暗くなっていた。近くのタクシー乗り場まで天野芳太郎ご自身がベンツに乗せて送ってくださったことも私の自慢話(話す機会はほとんど無いが)となっている。

 そういうことで、アンデスならレプリカでも何でもよいから参加しよう、と気軽に出かけたのがまずかった。顔を出したことによって、科研の仕事に引っ張られ、レプリカ法を駆使しての縄文のマメ探しに陥ることになってしまった。
茅野市尖石縄文考古館でレプリカ法の講師を務められた丑野さんは、アンデスの調査では現物を国外に持ち出すことができないため、そのモノ、つまり遺物をしっかり観察し、情報を引き出すにはどうしたらよいかと考えた末に、印象剤(歯科用シリコンが最適)を使うレプリカ法を編み出した人だ。
レプリカ法の道具一式(株パレオラボ製)
残されたものから多くの情報を得るためには、前回記したフローテーション法、そしてレプリカ法がある。シリコンを使うレプリカ法は資料を壊したり、汚したりせずに精度の高い情報を引き出すことができる。例えば、石器の場合は石器を作るために使用した道具とその道具の使い方まで分かる。また石器の用途も明らかになる。土器からは、イモムシ、ヨツボシカマキリ、モミ、マメの圧痕、土器を作った人の手のひら圧痕、使った道具(施紋具)、混ぜた繊維、木の葉の跡などがみつかる。丑野さんはフランスから呼ばれて渡仏し、プロヴァンスにある15世紀に作られた祭壇を調べたことがあるそうだ。その際、木製祭壇を作った時の刃物を動かした断面で道具を使った角度が判明し、道具は丸ノミ、使われたニスの刷毛の種類などもわかったという。
種子圧痕レプリカ
虫の圧痕レプリカ
  現在、私たちの科研では「八ヶ岳山麓縄文時代中期のマメ栽培化過程」を明らかにしようとしている。そのためにフローテーション法で土壌の炭化種子を探し、レプリカ法で土器の中に埋まっているマメを見つけ出している。この両輪の輪を使って、縄文人たちの食生活が単なる狩猟採集ではなく、植物を栽培し、豊富な食料を得ていたこを証明したいのである。しかも、マメ探しの途中で不思議におもうことに遭遇している。縄文人が土器をつくっている時に偶然マメが入ったとか、面白がって1個か2個入れたというのではなく、一つの土器から100個以上ものマメが出てくることだ。岡谷市梨久保遺跡の土器からはエゴマ圧痕が3000粒、長野県豊丘村伴野原遺跡の土器からはダイズ属、アズキ属のマメが200個見つかった。マメを混入させるタイミングとしては、粘土を練り終わるころに混ぜ込むこともわかっている。縄文人のマメとかエゴマなど特定の植物へのおもいが感じられる。それは彼らの大切なものへの祈りなのだろうか。彼らの精神性を追求しなくては終わらない仕事となりそうな予感がする。「モノを通して、その時を生きた人々をみる」天野芳太郎のように。

2015年4月8日水曜日

縄文のマメ探し奮闘記 その1

その1:炭になったマメ(炭化種子)探し

 数年前の早春、やっと雑草が芽吹いた頃、東京都葛飾区水元公園で野草を食べる活動をしている知人が、この辺り(富士見町)なら野草がたくさんあるだろうとメリケン粉やてんぷら鍋など一式車に乗せてやってきた。そして庭の足元にある草を見て、これはOK、これもだと若芽をちぎってまわった。するとそのうち庭から出て、野草を探してとうとう富士見町中を歩きまわった。ツクシはもとよりタンポポ、カラスノエンドウ、ノビル、ニワトコ、それにヤマミツバなどを採りまくり、天婦羅にしてご馳走してくれた、なるほど草も美味しいものだと雑草を見直した。

縄文時代から自然豊かな富士見町
庭にはヤマミツバはいっぱい見つかるが、ノビルはないから他所から引っこ抜いてきて増やした。後日、植物考古学者の佐々木由香さんに、「ノビルは庭になかったので、他所から引っこ抜いてきて自分の庭で増やした。きっと縄文人も美味しいものを自分の近くで増やして食べていたに違いない」と話したら「ふんふん」と同意してくれたので、縄文人は美味しい雑草を身近で増やして食べていたと確信している。人間の普通の成り行き、感性だとおもっている。そのような簡単な作業は栽培cultivationではなく園芸horticultureであろう。(後日知ったことだが、山梨県立博物館の中山誠二さんもhorticulture園耕という言葉を使っている。)

 八ヶ岳山麓富士見の自然環境の中で、漫然と縄文人の食べ物を考えていた私は突然、「縄文のマメ探し」に駆り出される羽目に陥った。それは2013年6月4日のこと、日本学術振興会科学研究費補助金基礎研究(B)「中部山岳地域縄文時代マメ栽培化過程の解明」というたいそう難しい題目の手伝いをすることになったのである。リーダー(親分と密かに呼んでいる)の会田進宅(通称・会田考古学研究所)での仕事が始まった。仕事を開始してから知ったのだがお題目とは全く違って単純労働だった。

遺跡から出た土を運ぶ
  ビニールハウスの中での作業が始まった。バスタブのような容器に水をいっぱいに張って、黒い土を入れた。その土を潰さぬようにやさしくかき回すと、黒い物体、よく見ると炭がブワーっと浮いてきた。それを荒い目の金網杓子ですくい取る。そして新聞紙を敷いたカゴトレイに広げる。それからまた同じ作業を繰り返す。最初は大きな黒い炭を取り、すくい取る作業を重ねるごとに、3~4mm、 2mm、 2mm以下と小さいものを分けていく。6月のビニールハウスの中は暑い。汗水タラタラ流しながら、日焼け覚悟の作業だった。

炭を置いた新聞紙カゴトレイは、数日かけて乾燥させる。この黒い炭の中にマメがあるのだというが、そんなことはもちろん信じなかった。ところがある日、総合研究大学院大学の那須浩郎さんがビニールハウスに入ってきた。そして小さな黒い物体すなわち炭を手のひらに広げながら、「ああ、ありますよ。マメ、ツルマメかな?」と言ったので、私の驚きようといったらなかった。半信半疑の過酷な労働が報われた瞬間だった。

ゴミの混ざった中からマメを探す
羽根の先でゴミ、木片をよりわけマメを探す

やっと炭化種子を発見
那須浩郎さんは葉山にある総合研究大学院大学先導科学研究科の上級研究員で、遺跡から出土する植物遺体の分析研究を通して、過去の農耕や人々の食生活、遺跡を取り巻く環境の復元に取り組んでいる。

研究室での那須浩郎さん
フローテーション法 
 炭化した種子は、主に炉周辺の土や火事になった住居から出てくるが、水分の多い土壌の中で還元状態になると、自然に炭化する場合もあるという。炭化した植物種子を効率よく収集する方法として、フローテーション法が用いられる。これは比重の軽い炭化物が水中で簡単に浮かび上がってくることを利用した、炭化物と土壌の分離方法である。暑いビニールハウスの中で黒い土と格闘しながらしていた作業は、このフローテーション法だった。採取した炭化種子は実体顕微鏡でチェックし、必要に応じてC14年代測定をおこなう。
フローテーション法のよいところは、住居址の年代と炭素14年代測定値、そして必要に応じての破壊検査で確実に年代がわかることである。


那須さんが描いたフローテーション器具 
なぜ、縄文時代のマメを探すのか?
 縄文時代は狩猟採集の時代であって、農耕はなかった。米が長江流域から伝搬してきてから日本列島で米の栽培、農耕が始まったとされている。でも、よく想像してみると日本人の先祖である縄文人(新石器時代人)が裸同然で野山を駆け回って1万年以上も暮らしていたとは考えにくいし、考えたくない。貝塚や湿地帯の遺跡からは縄文人骨が発見されている。長野県安曇野の北村遺跡の300体の人骨もその一つだ。そこを研究した赤沢威(シリア・デデリエ・ネアンデルタール人復活プロジェクトリーダー)は、人骨のコラーゲン分析をした結果、植物性の食べ物に大きく依存していたことがわかった。特にドングリ、クリ、クルミなど堅果類中心だったとおもわれる、と発表している。
 さらに植物性タンパク質を摂るためにというと大げさになるが、縄文人が自然観察をしてマメもよい食べ物ではないかと考えたのに違いない。ダイズはモンゴロイドの食べ物で東アジアに広く分布していた。アズキも東アジア原産である。ダイズの野生種はツルマメ、アズキはヤブツルアズキである。ダイズの栽培種は野生種より体積では10倍大きいがタンパク質は野生種の方が5~10%多い。この素晴らしい資源を賢い縄文人が放っておくわけがない、彼らは品種改良に務めたらしく、縄文時代中期4,500年前には大型のダイズ属種子が出てきている。現在行っている「縄文時代中期のマメ栽培化過程の解明」で、ダイズ属とアズキ亜属のマメ、もっと大きなサイズのマメをたくさん探し求めている最中である。




 次のブログでは、土器に残されている圧痕(小さな穴)に印象材シリコン(歯医者で使う)を入れて型取りをする方法でマメを探すレプリカ法について書こうと思う。
 

2015年2月11日水曜日

スイス・ヌーシャテル湖畔へ ラテニウム

水中考古学
 文化庁は「遺跡保存方法の検討ー水中遺跡ー」の研究成果をまとめた調査報告書(平成12年度)を出している。
 この調査報告書のはじめに「日本における水中遺跡調査の歩み」が記されており、注意深く読んだ。日本の水中出土遺物への関心は、江戸時代にあたる18世紀中頃以降からあった。各地の好古家たちによって、琵琶湖の沖島付近では石鏃が、讃岐高松海中からは磨製石剣、また野尻湖からは石斧などが、当時から発見されていたのである。
 近代日本の考古学黎明期であった明治41年(1908年)には、長野県諏訪湖底から石鏃が発見された。この発見は、諏訪の高島小学校代用教員であった橋本福松が、「曽根」と呼ばれる水域でしじみ鋤簾で地質調査していた時に2個の石鏃が引っかかったものだ。彼は「東京人類学雑誌」24巻278号(明治42年)に「湖底に沈んだ遺跡だ」と自説を論じた。しかし、同じ雑誌の同じ号で、日本の近代考古学始祖ともいえる坪井正五郎は、湖底に遺物のあることを検証し、杭上住居趾の存在を提唱していた。


諏訪湖
 坪井正五郎は明治22年(1889年)から25年(1892年)の3年間、英国に留学した。その35年ほど前に、ヨーロッパでは湖上住居趾が発見されていた。彼はそれを実際に見分して興味を抱き、日本にも石器時代杭上住居の跡があるはずだと考えるようになった。これに対し、帝国大学地質鉱物学者 神保小虎は、水位の変化、断層活動による地盤沈下など土地陥没説を唱えたので、ここに曽根論争というものが巻き起こった。
 大正時代に入り、この論争について検証をしようと坪井の愛弟子鳥居龍蔵をはじめ、八幡一郎、両角守一たちが曽根湖底の調査を行ったが、結論はでなかった。
 新たな説が生まれたのは、戦後になってからのことである。昭和35年、直良信夫が湖上増水説を提案し、藤森栄一が「諏訪湖曽根の調査」を発表した。その中で藤森栄一は、曽根は陸続きの岬であったが、湖底に沈んだ遺跡であると断定した。そして水底調査の必要性を説いたが、当時の技術不足と資金難から実現せず、今日に至っている。

水上生活とその不思議さ
 水の上の生活、湖上住居で暮らした人々のことは、私にとって何かしらロマンティックな想いを抱かせる。何故なのかと考えると、そこには非日常的な日常があるからだ。私が思い浮かべる水上生活は、チチカカ湖にバルサを組んで生活をするペルーの人々、タイ・バンコクを流れるチャオプラヤ川のトンブリの水上生活をする人々、さらにその上流にあるダムヌンサドアック水上マーケットなどでの日常生活である。タイ・バンコクは東洋のベニスと謳われていた。その本家本元の「水の都」ヴェネツィアを訪れるたび、水の音を聴き、反射する水の光に目を細めながら、自分の立っている下は水しかないという危うさを感じる。陸に立つ感覚の確たるものとは違う。それなのに、人々は素知らぬ顔で日常生活を営んでいるその不思議さに酔う。

ワットアルン(トンブリ側) 
ヴェネツィア
  湖上生活、杭上生活の不思議さに魅かれる私は、スイス・ヌーシャテル湖畔に古代の湖上生活をした人々がいたことにずっと興味津々だった。1967年にジュネーブに住んだが、その時ヌーシャテルへは行かなかったことを、ずっと心残りに思っていた。しかし2013年夏、ヨーロッパをドライブする家族旅行計画が持ち上がった折、計画立案者の私は、これ幸いにとヌーシャテル湖畔の考古学博物館ラテニウム訪問を組み入れた。

ヌーシャテル湖北岸へ
 2013年7月9日、スイス・ローザンヌからヌーシャテルへ向かった。この年の夏はサハラ砂漠からの熱風がヨーロッパ全体を覆いつくしていた。その前夜に泊まったジュネーブ湖畔ローザンヌのウーシーもムウっとする暑さで、日本の熱帯夜のようだった。スイス高速道路1号線を北上し、5号線からヌーシャテル湖北岸へ出た。目指す考古学博物館ラテニウムは、ヌーシャテルの街からさらに20kmほど走ったオーテリヴ(Hauterive)にある。車から降りると、とにかく暑い。カンカン照りの場所にある有料パーキングはスイスフランのコインが必要だが、手持ちがない、それで建物の裏手にあった職員用と思える日陰に澄ました顔で駐車した。眩しいし、暑いし、広い敷地の中、博物館入り口にたどり着くまでも日陰を選んで歩いた。エアコンがあったかどうか忘れてしまったが、建物の中は涼しかった。
考古学博物館の入り口
ラテニウム考古学博物館ができるまで
Lateniumの全体図 
 ヨーロッパでは1857年の冬季に大旱魃がおき、スイス・ヌーシャテル湖北岸のラ・テーヌ村でも水位が下がり、湖底があらわになって木杭列が出現した。他にも鉄製の武器や装飾品が多数発見され大騒ぎになった。その後、さらなる発掘と研究が行われ、1952年にそれらの遺物を収蔵するために、ヌーシャテル県立美術館に別館が建てられた。1960年代に入ると、ジュラ山脈からの水路工事や国道5号線の工事が行われ、またもや無数の考古学的発見があった。そこで1979年から新しい考古博物館の設立へ向けての動きが始まり、2001年にスイス最大の考古博物館ラテニウムが完成した。2011年にはスイス(56ヶ所)、ドイツ(18ヶ所)、オーストリア(5ヶ所)、フランス(11ヶ所)、イタリア(5ヶ所)、スロヴェニア(2ヶ所)にまたがる「アルプス地域の先史時代湖上生活跡群」が世界遺産として認定された。それ以来、ラテニウムはヨーロッパ大陸の古代史研究の中心となって各国にネットワーク網を広げている。

コンセプトは「知識と夢」
子供たちの考古学的?遊び場
大きな池でも遺跡の保存
 スイス・フランス国境にまたがるジュラ(Jura)山脈の南山麓にあるラテニウム考古学博物館と考古学公園は、ヌーシャテル湖の水際にある。公園は無料で、一年中開放されている。公園には復元家屋やマンモスの滑り台があり、子供たちの遊び場になっているし、大人は広大な敷地を自由に散策できる。しかし、この日の暑さでは散策はしたくなく、日本の遺跡の復元家屋と同じようだと思いながら、復元家屋の写真を撮るだけにした。

 考古学博物館の常設展示は、ゆるやかなスロープを歩きながら、現代から過去に遡っていく形式をとっている。建物の階数は2階半ぐらいだと感じたが、もちろん急ぎの人用に階段もエレベーターもあった。行きは順路どおりに進んだが、帰りは直帰用の階段を降りた。
スロープと階段
①はじめに
地中海から北海へかけて(ヨーロッパとは書いていない、古代にはヨーロッパという概念はなかった!)考古学的視点からみた人類、時代、環境について。
水中での発掘、保存の仕方などを実際に再現している。
発掘の様子を水中保存


②ルネサンスと中世:A.D.1600~A.D.476
1011年に建てられたNeuenburger城の模型や城壁の石材。聖人像など。  

③スイスの古代ローマ:A.D.476~1B.C. 
スイスで一番美しいといわれるローマの宮殿 The Colombier villaの出土品。

④5000年前の船:400B.C.~4400B.C.
古代ローマの船や湖上生活者の使った丸木船の展示。



⑤鉄器時代ラ・テーヌ文化 : 1B.C.~800B.C.
ラ・テーヌ文化とは、発見場所であるラテニウムのあるラ・テーヌ村から名前が付けられたヨーロッパを代表する鉄器時代文化である。このラ・テーヌ文化は、青銅器時代から鉄器時代初期(1200B.C.~500B.C.)にオーストリア南部に興ったハルシュタット文化の流れを受け継いでいる。その文化は中央アジアからやってきたインドヨーロッパ語族ケルト諸派民族がもたらしたもので、馬と車輪付き馬車を中央ヨーロッパに拡めた。ハルシュタット文化はギリシャやエトルリア(古代ローマに滅ぼされた文化)の影響を受けて、ラ・テーヌ文化(500B.C.~A.D.200)へと発展した。ヨーロッパ大陸のケルト鉄器文明といわれているが、近年になってケルトとはまた別ものという説もでてきている。

⑥湖上生活者:800B.C.~5500B.C.
青銅器時代から新石器時代まで。スイスと聞いて思い浮かべる古代の湖上生活者の様子が展示されている。湖上集落の模型、青銅器でできたたくさんの釣り針、石鏃、網かご、琥珀の玉などの出土品。その中でも復元された蓑笠は、日本のものかと見紛うばかりだ。ここの展示は一番時間をかけて見て回った。







⑦中石器時代から前期旧石器時代の狩猟者たち:3500B.C.~13,000B.C.
狩猟採集の人々の暮らしを展示。


⑧氷河時代のスイス:13,000B.C.~40,000B.C.
凍った寒さを感じる展示だった。

⑨中期旧石器時代 Great Bear Country : 40,000B.C.~100,000B.C.
なぜか大グマの世界だったらしい。いろいろな種類の動物の骨が展示されていた。Cotencher洞窟で見つかった人類の骨もあった。

 なだらかなスロープを上りながら古代へ古代へと歩いて行く、楽しい旅だった。

 帰りにミュジアムショップに寄って、ガイドブックともう一冊本を買ったが、残念なことに英語版はなかった。フランス語かドイツ語、ドイツ語なら解読できる娘がいるのでドイツ語にしたが、私には写真しか分からない。2013年当時、ウェブサイトもスイス公用語であるフランス語・ドイツ語・イタリア語でしか載っていなかったが、2014年から英語も加わった。それで少しは理解でき、整理がついたので、このブログを書くこととした。www.latenium.ch