2012年10月21日日曜日

翡翠

北杜市天神遺跡出土縄文時代前期(約5500年前)最古のヒスイ大珠

古墳時代の勾玉











  ヒスイというと古代の勾玉をすぐに思い出します。古事記にイズモのヤチホコがコシのヌナカワヒメにプロポーズした話がありますが、ヌナカワヒメのコシの国はヒスイの産地です。新潟県糸魚川市内にはヒスイの首飾りをかけたヌナカワヒメの像があちこちに立っており、古事記の話はヒスイの重要性を暗示しています。
  古代日本で持て栄されたヒスイは、ビルマ(ミャンマー)や中国から入ってきたものと考えられていましたが、反対の説を唱えた学者もおりました。1940年(昭和15年)天皇の位のしるし三種の神器(鏡、剣、玉)についての論文がまとめられ、玉については原田淑人氏が見解を述べています。この方は大学の卒業論文を指導して下さった私の恩師なので、原田先生の論に私は特に注目しました。原田氏は「交通不便な古代に、ヒスイがはるばるビルマから運ばれてきたと考えるのはいかがなものか、しかも、中国の江南地方を経てきたと考えると、中国風に加工された痕跡があるはずだが、それもない。魏志倭人伝には、トヨ(ヒミコの後継者)が貢ぎ物とした中に青大句珠二枚とあるが、大句珠を大勾玉と考えると、それはヒスイ製であっただろう。飛騨山中で見つかった石を見ると、ヒスイのような気がする。ヒスイの原産地が日本の何処かにあるのではないか」というような意見を述べられました。
  しかし、その頃、日本国産のヒスイはすでに発見されていたのでした。1938年(昭和13年)現在は糸魚川市内になっている姫川支流の小滝川で、伊藤栄蔵という人が発見していました。その石は地元と縁のあった東北大学教授河野義礼の鑑定によってヒスイと断定され、1939年(昭和14年)に論文が出されました。しかし、この大発見は戦後まで日の目をみることはなかったのです。ヒスイ産地論争は戦争で中断され、戦後になって小滝川のヒスイ産地研究が再開され、昭和30年3月国指定重要文化財となりました。

台湾とニュージーランド製のJade

  私は台湾とニュージーランドからのお土産のジェードのペンダントトップを持っています。写真より明るい翠色で、ニュージーランドのものはグリーンストーン • ティキ • ペンダントというマオリ族の子孫繁栄と悪霊除けのお守りです。ヒスイ産地は、日本国内は新潟県糸魚川地域以外に鳥取、兵庫、長崎、宮崎など、世界ではミャンマー、ロシアのウラル極地、カリフォルニア南部、メキシコやグアテマラなどなどあります。ヒスイを大切にしていたのはオルメカ、アステカ、マヤ文化が有名ですが、日本では世界一古く縄文時代前期からヒスイを重んじる文化がありました。
  ヒスイ、Jadeと一口で言ってもjadeiteヒスイ輝石=硬玉とnaphriteネフライト=軟玉とあり、色も翠、青、ラベンダー色、緋色と様々であり、成分もさまざまです。古代人が愛したヒスイは硬玉であり、私の持っているのは外国産の軟玉で、この二つは全く成分の違うものです。実は硬玉、軟玉という言い方は間違いで、宝石のひすいは硬玉と決まっているそうです。

  縄文人は何故か、白まじりで灰色がかり翠色がしのばれるヒスイが好きでした。彼らには大変なこだわりがあり、姫川や青海川の転石、海岸に流れ出した漂石のみを尊んでいました。漂石は糸魚川市の青海海岸、ラベンダー海岸さらに富山県の朝日海岸でも採れますが出自は全部糸魚川周辺から流れついたものでした。この地方のヒスイは日本各地の遺跡、北海道は利尻島、また朝鮮半島の遺跡からも見つかっています。
  
明星山が見えた!

  去る9月30日に茅野市市民館で第17回縄文文化講座があり、糸魚川市フォッサマグナミュージアムの宮島宏氏と糸魚川市教育委員会文化財係長木島勉氏の話を聞きに行きました。前々から姫川のヒスイがある糸魚川市へ行きたいと思っていた私は、両氏の話に背中を押され、とうとう10月10日に出かけました。
  真新しい看板に変わったばかりの「安曇野」ICを出て、国道148を走りました。大町を過ぎ、白馬に差しかかる佐野坂辺りが姫川の源流となります。佐野坂からは下る一方でした。小谷を過ぎると洞門、トンネルが多くなり、目当ての小滝川ヒスイ峡ジオサイトの手前のトンネルは10km以上も続き、もうヒスイ峡は過ぎたのかしらと心配になったほどでした。

3億年前の珊瑚礁が移動してできた石灰岩の山、明星山(1189m)
小滝川ヒスイ峡にそそり立つ南壁はロッククライミングの名所
茶色の大きな石はヒスイではありませんが他のきれいな石はヒスイの原石です。
国指定天然記念物だから採取してはいけません。大き過ぎて持てません。


     小滝川までの道は工事中で閉鎖中、山道を遠回りさせられましたが、
ヤッター!!!河原までおりました。

  縄文時代から古墳時代までヒスイの神秘性にこだわりを持っていた日本人でしたが、奈良時代に仏教が入り、価値観の変化とともにヒスイに見向きもしなくなりました。こうしてヒスイは時とともに忘れ去られていきました。
  糸魚川フォッサマグナミュージアムの宮島宏氏は「翡翠は堅いけれど硬くない」と話されました。かたいけれどかたくない翡翠、カワセミと同じ漢字を当てるヒスイ。何故、古代人はヒスイに魅かれたのか、そして突然、用なしとなって消えたのか?ヒスイは神秘と謎を含んだ魅力ある鉱物です。
  糸魚川市の青海海岸やラベンダー海岸では、朝早くにヒスイ転石を探す人がいますが「一朝一石」とはこのことだそうです。

一番目の写真と同じヒスイの大珠
北杜市考古資料館で10月21日見てきました

2012年10月4日木曜日

秋はすとんと



 「秋はすとんとやってくる」というフレーズが我が家で流行ったことがありました。「秋はストン」、高原ではお盆を過ぎる頃にストンと肌寒くなり、ススキが花を付けた穂を出しているのに気がつきます。フレッシュなすすきは赤みがかった色をして、それがだんだんふわふわになり、白い色に変わり、最後には茶色でグタっとなります。             

 
 門の外は一面のすすきヶ原です。一昔前、ここにセメント工場建設が目論まれましたが、富士見町民の大反対にあって中止となりました。白林荘に一時期隠棲していた犬養木堂、しばしば滞在した田山花袋、毎夏を過ごした田宮虎彦などと、かかわりがあり由緒のある富士見ヶ丘一帯が台無しになるところだったのです。富士見の人々の英知によって、自然が守られた場所は鹿が駆け回り、雉の住処となり、私の散歩道になっています。                                
フレッシュなススキ、リシアンサス(トルコ桔梗)、ワレモコウのブーケ
ススキの次に秋を感じさせるのは蕎麦の花です。白い花が咲き始めると、田んぼの稲もすぐに黄金色になってきます。近年、蕎麦畑が増えてきました。白と黄色の広大な畑を富士見町烏帽子で九月初旬に見つけました。

南アルプス方面を望む畑の黄金の稲と白い蕎麦の花(富士見町烏帽子)
八ヶ岳を望む側
  稲刈りは今が追い込み、散歩道で見かけたあぜ掛け風景。数年前まで、この風景は珍しいものでしたが、ワラが見直されたせいか、昔懐かしい風景が戻ってきました。ワラが欲しいと農家の人に頼んだら、自分のところで使うから駄目と断られてしまいました。     


  富士見町特産の赤いルバーブは秋が深まるとともに、その赤い色も深くなっていきます。友人が軽井沢では赤いルバーブは手に入らないというので、今年も2キロ送りました。私も1キロでジャムを作りました。                               
赤いルバーブ
ルバーブジャム 

山栗の収穫 約5キロ
  
去年、全く実らなかった栗は、今年は大豊作でした。小さいので剥くのが面倒ですが、栗ごはんを炊きたくて剥きます。心待ちにしていた栗の渋皮煮が、今日、つくば市の友人から届きました。彼女のお手製でとても美味しく、うちの小さな栗と違って筑波山麓の巨大な栗です。