2017年5月15日月曜日

弥生人の粋なはからい

   2017年正月特別番組NHKBSプレミアム「英雄たちの選択」でもう一つの邪馬台国として吉備王国の古墳が紹介されていた。「そうか、吉備にねー、邪馬台国、ありえる」と妙に納得した私は、古墳の前の形態である弥生墳丘墓をどうしても見たくなった。



  楯築遺跡のある倉敷市へ行くチャンスはある。玉野市に住む弟たち訪問の帰途に寄ればよいのだ。岡山県玉野市は倉敷市の隣だから近い。「楯築遺跡、楯築弥生墳丘墓」としっかり名前を覚え、車のナビにも地点を入れ、2017年3月19日、玉野市からの帰途に実行した。


   瀬戸中央自動車道水島インターで下り、開けた畑と市街地が混在する平地を進み、山陽新幹線が横切っているとところで犬養木堂記念館の看板を認めた。そうだ備前は彼の故郷だったと思い出した。犬養木堂は富士見高原を好み、政界を引退して住む場所と決めていた。その木堂の別荘「白林荘」は富士見町、家の隣にある。楯築とはご縁が重なると、関係ないけれど感じ入った。


   小高い丘にさしかかり、坂を上って行くと住宅地に入った。こんな住宅地のところではないと思いながら、右手の鬱蒼とした林を見ると、そこには「王墓の丘史跡公園」と立て札がある。ちょっと意外な感じだったけれど、ちゃんと狭い駐車場もあるので、そこに車を停めた。いつもながら夫は車で座っていると言うので、独りで歩くことにした。いつもこうなのだ。上杉謙信の春日山城に行った時も、独りで城址の頂上まで登った。 シャガの花が咲き乱れていたっけ。


  朝未だきとは言えない9時前だったけれど、日曜日らしく住宅地はひっそりしている。「王墓の丘」には王墓山古墳、日畑赤井堂(法田山古墳)、楯築弥生墳丘墓が並んでいるらしい。楯築弥生墳丘墓へは、駐車場からすぐのところに入り口があった。数日前の寒さとは打って変わった暖かい朝の空気を楽しみながら、ゆっくり林の丘を登っていった。遺跡の案内板のある所で鋭角に道は折れ、さらに登っていくと、変なものが見えてきた。天を突くような白い大きなタンクだ。後で分かったことだが、これは「庄パークヒルズ」の大規模造成工事で作られた給水塔とのこと。古代への憧れがぶち壊され、ムッとしたので、林の散策路へは入らずに給水塔の横を歩いて頂上を目指した。



  小さな丘(円丘部)の頂上には、背丈より高い石が5つ、円を作って立っていた。弥生時代になると縄文の木柱列ではなく石(列石)になるのだと思いながら、2、3周歩いた。下を見渡せる端に立つと、住宅がすぐ足の下まで迫っていた。もう一回石の周りを歩いた。

  丘の側には無粋な倉庫のようなものが建っていたが、そこを通り過ぎて坂を下って行った。鋭角に曲がる場所まで来ると、坂を上がってくる人たちと出会った。何か研究者たちのような感じがする人たちだなと、挨拶をしてすれ違った。すると案内板でそのうちの一人が説明を始めた。思わず「専門家でいらっしゃいますか?説明を後ろでお聞きしてもよろしいでしょうか?」と厚かましく言葉をかけると、その人は「専門家ではないけれど…。今日は二人を案内しながら…」ということ。後ろから静かについて行こうと思ったが、そうはいかなかった。乗り出してなんやかんや質問をして、先頭切って歩いたりしてしまった。



  先ほどの丘は墳墓の頂上で、列石は下半分以上地下に埋もれて建っているとのこと、クレーンもない時代によく建てたものだ。さらに無粋な倉庫は収蔵庫で、楯築神社のご神体として伝わっている亀石が納められているそうだ。そして、ここではこのご神体より一回り小さな亀石(弧体文石)が出土し、それは東京国立博物館にあるとのこと。すごい石なのだ!収蔵庫(兼神社)には金網の張られた窓が四方にあり、中を覗くことができた。九州の亀石は聞いたことあるが、実物を見たのは初めてだ。なるほど不思議な石だ。人の顔にも見える。先ほどはスタスタ歩いただけの墳丘墓が、こんなにすごいものとは知らなかった。偶然出会った方々に深い感謝の念を覚えた。


  三人の方々は、これから一日中古墳めぐりをなさるとか、ついていきたい気持ち山々なれど、帰らねばならない。その前にもう一ヶ所、すぐ近くにある造山古墳を見ようと軽く考えた。車に乗って広い道に出ると、なんと渋滞していた。途中で横道から割り込んで来た車がある。夫に言わせれば譲って上げたとのこと「さっきの人たちだよ」「エー、後をついていって、ついて…!」と、10分も走らないうちに造山古墳に着いた。また挨拶して、今度も一緒にということになった。



  造山古墳(つくりやま古墳)は、全国第4位の大きさである。しかも、自由に登ったり下りたりできる古墳としては最大だということ。古墳は大体が御陵だから、勝手に入れないのだ。冬の間、私は歩いてないからと、ヨロヨロするのを抑えながら若い人たちについて登った。ここは丘ではなく小山だ。頂上からの見晴らしは素晴らしかった。「あの辺りが高松城」秀吉が水攻めして、大返ししたところだ。「ここに毛利が陣を張った。あそこの崖のようになった場所は毛利勢が切り崩した」との説明。この山が古墳だとは、当時の武士たちは知らねーだろう。古墳から戦国時代まで歴史は空を飛んだ。


  別れ際に麓の駐車場で記念撮影をした。「写真を送りたいのですが、メールアドレスは?」「Facebookは?」「してます、してます」バアさんもFacebookしていてよかった。その場で、すぐFacebookでつながった。帰宅後、玉野つながりとか、岡山理科大学つながりも判明したのでさらに楽しくなってきている。

  「弥生人の粋なはからいに感謝してます」と、メッセージが届いた。本当に粋な人だな、楯築墳丘墓に眠る弥生人は。


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