2015年7月9日木曜日

瀬戸内ドライブ旅 その2 愛媛県久万高原 上黒岩岩陰遺跡へ

 松山インターを降りて上黒岩遺跡考古館に電話し、今から行く旨を話すと「松山からやと40〜50分かかります」という返事があった。ここまで来て40〜50分で躊躇してはならぬと高知へ通じる国道33号線を久万高原へ向かった。途中、砥部町の国道分離帯には、大きな陶磁器が点々と据え置かれているので、砥部焼きに心惹かれたが、これまた寄り道はならぬと先を急いだ。砥部町から上り山道になり、三坂峠に完成したばかりの新しい長いトンネルを走り、そのあとはクネクネした山道を標高800mの久万高原へ40分ほどで着いた。ここは四国の軽井沢と呼ばれているそうだ。松山までの高速道から見た四国山脈の険峻さに驚いていたが、後になって西日本一高い修験の山霊峰石鎚山は、愛媛県西条市から久万高原へかけて所在すると分かり、高速道から望んだ山の急峻さと神々しさに納得した。

 上黒岩岩陰遺跡の考古館に着くと、ご婦人が待ってましたとばかりに出迎えてくれた。お出迎えに恐縮していたら、「主人が館長ですが、今日は家の普請なので、私が留守番してます」とのこと、先ほど電話した相手は館長夫人だったのだと、さらに恐縮した。質問すると「私は何もわからないので」と、言いながらも付いて回ってくださるので、こちらは少し閉口した。考古館の隣家、竹口さんの息子が土器片を見つけ、それを教育委員会に報告したのがきっかけで、この遺跡の発掘調査が始まったとのこと。素人による発見が貴重な遺物や遺跡につながることはよくある話だが、彼らの誇りは如何許りだったかと、発見した当時(1961年)は中学一年生だった竹口義照さんのことを考えた。館長夫人は、古い発掘現場の写真にある学生服姿を指差して「これが主人です。今じゃ歳とってあきません」と館長夫人は嬉しそうにちょっと得意そうに笑っていた。
石偶
 この遺跡は、「手のひらサイズの小さな石偶(ヨーロッパではよく見かける石の人像(ひとがた)で、縄文時代の土の人像「土偶」の原点と言われている)」が13体見つかったユニークな遺跡である。石偶は小さな平たい石に乳房と腰ミノが線刻されているので、女性と分かる。ウィーン自然史博物館で見たウィーレンドルフのビーナスも25,000年前の石偶ではあるが、これより手の込んだしつらえだった。


鏃の刺さった骨(鏃は外れてしまったとのこと)
 ユニークな発掘品といえば、ここには鏃(矢じり)が大腿骨に突き刺さった女性の骨が発見されている。縄文時代には戦いがなかったというのが大方の見方であるが、これいかに?縄文時代は平和な時代だったと信じている私は、多分、射た人の手が滑って人間に当たっただけ、否、ちょっと憎らしい人だったから矢を当てたのだとか想像してみた。


岩陰遺跡


館長夫人と遺跡の前で
 岩陰遺跡そのものは考古館のすぐ脇にあり、鍵を開けていただき、入ることができた。縄文時代草創期約16000年前〜縄文時代後期3000年前まで9層から11層にわたる岩盤が目の前にあった。「もっと掘るといいんですが」と館長夫人が最後に言った。「そうですね」と言いながらも、私は後世の人たちの仕事として残しておこうよと、心の中でつぶやいていた。そして、爽やか久万高原を後にし、国道33号線を松山へと下った。『つづく』

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