「まほろば」という言葉は「素晴らしい場所」「住みやすい私の場所」という古語です。「倭は国のまほろば たたなずく青垣 山こもれる 倭しうるわし」と、ヤマトタケルが望郷の念をこめて呼んだ歌は、古事記に出ています。「まほろば」は「やまと」の地だと信じていた私は、縄文の丘 • 三内まほろばパーク「縄文時遊館」で、「まほろば」という言葉が堂々と掲げられているのを見て、違和感を感じました。「まほろば」ってどういう意味があるのかと、時遊館で突っ立っている係員のお姉さんに聞くと、「司馬遼太郎さんが使っておられた言葉で、理想郷とかユートピアとかいう意味です」とすらすらと答えてくれました。しかし、私はどうしてここ東北地方で「まほろば」を使うのか納得がいきませんでした。「なんせ早いもん勝ちなんや」と思わずつぶやいてしまいました。
「縄文のまほろば」を世界にアピールしていこうと、青森県を中心に北海道、岩手県、秋田県では「北海道 • 北東北を中心とした縄文遺跡群」のユネスコ世界遺産への本登録に向けて運動を進めています。このように強固な縄文ネットワークがあるのも、現地に来るまでは知りませんでした。
この三内丸山遺跡、そして大湯環状列石を見たいと長年願っていた私は、2011年9月11日、青森空港で伊丹から飛んできた友人たちと待ち合わせ、レンタカーで大湯環状列石から三内丸山遺跡への旅に出発しました。運転手は私。
大湯環状列石
環状列石(ストーンサークル)で世界一有名なのは、英国のストーンヘンジです。日本では縄文時代の石造遺構を指し、主に東日本に見られます。その中でも一番有名な大湯環状列石は、1931年(昭和6年)に水田開墾のために水路を造っていた時に発見されました。約130mの距離をおいて存在する野中堂環状列石と万座環状列石の総称です。現地へ行くまでは、大湯環状列石は広々とした野原の真ん中に、打ち捨てられたようなところにあるのだと想像していました。ところが、実物はイメージからかけ離れていました。国道103号線から逸れても道は広く整えられ、小綺麗な農家が立ち並ぶ中に「大湯ストーンサークル」と立派な看板が現れたかと思うと、そこに大湯ストーンサークル館が建っていました。45年前、英国ソールズベリー平原の彼方にポツンとストーンヘンジを見た時には、こころが震えました。でも、ここでは何処に環状列石があるのかも分からず、何の感動もありませんでした。
大湯ストーンサークル館
環状列石を見つけられないまま大湯ストーンサークル館に入り、見学していると、ボランティアガイドが説明してくれました。館内の展示物で特に目を引きつけられたのは「不思議な土版」と「大湯式土器」でした。
|
不思議な土版 |
不思議な土版には、人体が表現されていました。口、目、右胸、左胸、正中線と見ていくと、穴の数が一つずつ増えていき、1から5までの数が数えられます。後ろ側を見ると、左右の肩に穴が3個ずつあり、合わせると6になります。3という数字は縄文の人々が大切にしていた概念だそうです。
大湯式土器は、いつも見ている八ヶ岳山麓の縄文土器と比べるとシンプルでしたが、「花弁状文」という文様に魅かれました。この文様は上と下から花が咲いているように見えます。花模様が浅鉢の内側に描かれているものもあり、現代と同じ感覚の器でした。
遺跡の復元物
ガイドに案内されながらストーンサークル館を出て「縄文の森」を通り抜け、大湯環状列石に向かいました。大湯環状列石は、十和田火山の噴火によってできた二重カルデラ湖である十和田湖の麓にあります。井戸尻考古館の小林公明さんは「火山のある場所に縄文文化は栄えた。火山と縄文は切ってもきれない」といつも語っておられます。やはり大湯環状列石も火山のたまものだったのです。遺跡は縄文時代中期約4000年前の遺構で、大湯扇状地の舌状台地にあります。北と南は崖っぷちで飲料水に恵まれ、日当りがよく、採集狩猟に適していました。
遺跡では「フラスコ状土坑」が20基見つかっています。外気温の影響を受けにくく、食料品の蓄えに適している、貯蔵穴だったようです。「Tピット」と呼ばれる落とし穴は、上から見ると細長く、真横断面図は穴の下ほど狭くなっています。鹿などが穴に落ちると逃げ出せない、そんな工夫がされていました。皮を傷つけることなく鹿を捕まえたのは、皮を掘立柱建物のカバーに使用するためだったに違いないと、ガイドが力説しました。寒さの厳しいこの地方なら、屋根を鹿皮で覆い、地面には茅を敷いて、その上に皮を敷けば素晴らしい防寒になるだろうなと、冷たい風が吹いてきた中で、皮を張った建物を思い浮かべていました。アムール川辺り、北方からの影響のあった東北 • 北海道の縄文文化は、温暖な地方の縄文文化と違いのあるのは当然です。
掘立柱建物の他に、柱穴から推し量って建てた五本柱建物や、柱列が復元されていました。柱列は、直径約50cmの柱が3本1組となり、10m間隔で2列建てられていました。縄文の天高くそびえる柱列を見ると、清朝を興した満州族のことをいつも思います。彼らは神殿を持たず、祭祀の時には白木の柱を建て、先祖に祈ったということです。諏訪大社の御柱祭のように巨木を建てることへの信念は、日本海を隔てた大陸と日本列島に相通じるものがあると感じています。
日時計状組石と太陽
山梨県北杜市の金生遺跡では、本物の石は埋め戻して外材(偽物の石)で、遺構を復元していますが、大湯環状列石では
本物の石で復元しています。その本物の配石遺構を見ながら、万座環状列石から野中堂環状列石へと歩きました。この二つの遺跡は、なんと国道で遮断されていました。1956年に特別史跡に指定される前に、この道ができたので仕方がないけれど、世界遺産に指定されたら国道を迂回させなければとおもいました。
|
道路で隔てられている二つの遺跡 |
1966年にストーンヘンジを見に行った時は、遺跡のすぐ側の道路に車を停め、柵もロープもないところを自由に歩き、しかも石に腰をかけたのを思い出しました。そのずっと後に、アホな日本人が落書きをしたので、現在は厳重に管理されているようです。大湯環状列石でも石を持ち出した人がいたと聞きました。
大湯環状列石とストーンヘンジは7度4分の違いだけで、ほぼ同じ緯度にあるのも不思議なことです。
万座にも野中堂にも、それぞれ中心部に日時計状組石があります。この二つの日時計状組石は一直線に結ぶことができ、その線が指しているのは夏至の日没の方向なのだそうです。近くに黒又山(クロマンタ)という、日本のピラミッドではないかと言われている山がありますが、何か関係があるのかなと、ガイドにそれとなく聞いたところ、素知らぬ顔をされてしまいました。こういう発想は、学術的ではないからなのかしらと思いました。
(この後、三内丸山遺跡へ)