2015年5月13日水曜日

アンデスにひかれてマメ探し

 長野県原村にある縄文阿久友の会に入ってしばらく経った2012年1月、レプリカ法の講習会があると聞いた。何でも東大アンデス調査隊に参加したことのある先生が講習するという。なぬ、それは1960年代に泉靖一が率いたアンデス調査団だ。中学生の頃からインカ帝国に興味を持っていた私は、インカ、アンデスと聞くと直ちに反応するタチだったので、マチュピチュを発見したハイラム・ビンガム、東大アンデス調査団の泉靖一、実業家でインカ文化研究者天野芳太郎は憧れの人たちだった。
天野芳太郎との大切な写真
1967年10月、夫の仕事でペルーに行くことができた。現地では魚網関係の仕事をしていた高橋さんにお目にかかり、インカに興味があるのでマチュピチュにも行きたいなどと話をしたら、天野さんとは懇意だからと、すぐにアポイントを取り天野博物館へ案内してくださった。
 クスコのミラフローレスは高級住宅街で、そこに天野さんのお宅と博物館があった。昼下がりの訪問だったので、天野さんはシエスタ中、しばらく待っているとお出ましになった。博物館を自ら案内してくださったが、途中で丸紅の副社長夫妻が来訪したので、その間私にインカの織物がびっしりつまっている棚の引き出しを自由に開けて見ているように言われた。「勝手に開けて見てよい」ということに感激しまくって、端から端まで開けてみた。そしてもちろん、天野さんの解説も心に残っている。「インカ帝国は素晴らしい社会だったのですよ。きれいなピラミッドを形成した社会でしたが、上の者が下の者を搾取などせず、富を分配し、共同して平和な社会を作っていたのです。素晴らしい社会を」
天野さんが黄金製品のことよりも石の巨大建築物、ピカピカに光る土器のことよりもインカの人々が生きた社会の素晴らしさについて、目を輝かせながら話してくださったのを決して忘れない。遺物をみることによってそれを作り、使った生身の人たちを見ることの大切さを学んだ。
 天野博物館を辞去する時はすでに暗くなっていた。近くのタクシー乗り場まで天野芳太郎ご自身がベンツに乗せて送ってくださったことも私の自慢話(話す機会はほとんど無いが)となっている。

 そういうことで、アンデスならレプリカでも何でもよいから参加しよう、と気軽に出かけたのがまずかった。顔を出したことによって、科研の仕事に引っ張られ、レプリカ法を駆使しての縄文のマメ探しに陥ることになってしまった。
茅野市尖石縄文考古館でレプリカ法の講師を務められた丑野さんは、アンデスの調査では現物を国外に持ち出すことができないため、そのモノ、つまり遺物をしっかり観察し、情報を引き出すにはどうしたらよいかと考えた末に、印象剤(歯科用シリコンが最適)を使うレプリカ法を編み出した人だ。
レプリカ法の道具一式(株パレオラボ製)
残されたものから多くの情報を得るためには、前回記したフローテーション法、そしてレプリカ法がある。シリコンを使うレプリカ法は資料を壊したり、汚したりせずに精度の高い情報を引き出すことができる。例えば、石器の場合は石器を作るために使用した道具とその道具の使い方まで分かる。また石器の用途も明らかになる。土器からは、イモムシ、ヨツボシカマキリ、モミ、マメの圧痕、土器を作った人の手のひら圧痕、使った道具(施紋具)、混ぜた繊維、木の葉の跡などがみつかる。丑野さんはフランスから呼ばれて渡仏し、プロヴァンスにある15世紀に作られた祭壇を調べたことがあるそうだ。その際、木製祭壇を作った時の刃物を動かした断面で道具を使った角度が判明し、道具は丸ノミ、使われたニスの刷毛の種類などもわかったという。
種子圧痕レプリカ
虫の圧痕レプリカ
  現在、私たちの科研では「八ヶ岳山麓縄文時代中期のマメ栽培化過程」を明らかにしようとしている。そのためにフローテーション法で土壌の炭化種子を探し、レプリカ法で土器の中に埋まっているマメを見つけ出している。この両輪の輪を使って、縄文人たちの食生活が単なる狩猟採集ではなく、植物を栽培し、豊富な食料を得ていたこを証明したいのである。しかも、マメ探しの途中で不思議におもうことに遭遇している。縄文人が土器をつくっている時に偶然マメが入ったとか、面白がって1個か2個入れたというのではなく、一つの土器から100個以上ものマメが出てくることだ。岡谷市梨久保遺跡の土器からはエゴマ圧痕が3000粒、長野県豊丘村伴野原遺跡の土器からはダイズ属、アズキ属のマメが200個見つかった。マメを混入させるタイミングとしては、粘土を練り終わるころに混ぜ込むこともわかっている。縄文人のマメとかエゴマなど特定の植物へのおもいが感じられる。それは彼らの大切なものへの祈りなのだろうか。彼らの精神性を追求しなくては終わらない仕事となりそうな予感がする。「モノを通して、その時を生きた人々をみる」天野芳太郎のように。

2015年4月8日水曜日

縄文のマメ探し奮闘記 その1

その1:炭になったマメ(炭化種子)探し

 数年前の早春、やっと雑草が芽吹いた頃、東京都葛飾区水元公園で野草を食べる活動をしている知人が、この辺り(富士見町)なら野草がたくさんあるだろうとメリケン粉やてんぷら鍋など一式車に乗せてやってきた。そして庭の足元にある草を見て、これはOK、これもだと若芽をちぎってまわった。するとそのうち庭から出て、野草を探してとうとう富士見町中を歩きまわった。ツクシはもとよりタンポポ、カラスノエンドウ、ノビル、ニワトコ、それにヤマミツバなどを採りまくり、天婦羅にしてご馳走してくれた、なるほど草も美味しいものだと雑草を見直した。

縄文時代から自然豊かな富士見町
庭にはヤマミツバはいっぱい見つかるが、ノビルはないから他所から引っこ抜いてきて増やした。後日、植物考古学者の佐々木由香さんに、「ノビルは庭になかったので、他所から引っこ抜いてきて自分の庭で増やした。きっと縄文人も美味しいものを自分の近くで増やして食べていたに違いない」と話したら「ふんふん」と同意してくれたので、縄文人は美味しい雑草を身近で増やして食べていたと確信している。人間の普通の成り行き、感性だとおもっている。そのような簡単な作業は栽培cultivationではなく園芸horticultureであろう。(後日知ったことだが、山梨県立博物館の中山誠二さんもhorticulture園耕という言葉を使っている。)

 八ヶ岳山麓富士見の自然環境の中で、漫然と縄文人の食べ物を考えていた私は突然、「縄文のマメ探し」に駆り出される羽目に陥った。それは2013年6月4日のこと、日本学術振興会科学研究費補助金基礎研究(B)「中部山岳地域縄文時代マメ栽培化過程の解明」というたいそう難しい題目の手伝いをすることになったのである。リーダー(親分と密かに呼んでいる)の会田進宅(通称・会田考古学研究所)での仕事が始まった。仕事を開始してから知ったのだがお題目とは全く違って単純労働だった。

遺跡から出た土を運ぶ
  ビニールハウスの中での作業が始まった。バスタブのような容器に水をいっぱいに張って、黒い土を入れた。その土を潰さぬようにやさしくかき回すと、黒い物体、よく見ると炭がブワーっと浮いてきた。それを荒い目の金網杓子ですくい取る。そして新聞紙を敷いたカゴトレイに広げる。それからまた同じ作業を繰り返す。最初は大きな黒い炭を取り、すくい取る作業を重ねるごとに、3~4mm、 2mm、 2mm以下と小さいものを分けていく。6月のビニールハウスの中は暑い。汗水タラタラ流しながら、日焼け覚悟の作業だった。

炭を置いた新聞紙カゴトレイは、数日かけて乾燥させる。この黒い炭の中にマメがあるのだというが、そんなことはもちろん信じなかった。ところがある日、総合研究大学院大学の那須浩郎さんがビニールハウスに入ってきた。そして小さな黒い物体すなわち炭を手のひらに広げながら、「ああ、ありますよ。マメ、ツルマメかな?」と言ったので、私の驚きようといったらなかった。半信半疑の過酷な労働が報われた瞬間だった。

ゴミの混ざった中からマメを探す
羽根の先でゴミ、木片をよりわけマメを探す

やっと炭化種子を発見
那須浩郎さんは葉山にある総合研究大学院大学先導科学研究科の上級研究員で、遺跡から出土する植物遺体の分析研究を通して、過去の農耕や人々の食生活、遺跡を取り巻く環境の復元に取り組んでいる。

研究室での那須浩郎さん
フローテーション法 
 炭化した種子は、主に炉周辺の土や火事になった住居から出てくるが、水分の多い土壌の中で還元状態になると、自然に炭化する場合もあるという。炭化した植物種子を効率よく収集する方法として、フローテーション法が用いられる。これは比重の軽い炭化物が水中で簡単に浮かび上がってくることを利用した、炭化物と土壌の分離方法である。暑いビニールハウスの中で黒い土と格闘しながらしていた作業は、このフローテーション法だった。採取した炭化種子は実体顕微鏡でチェックし、必要に応じてC14年代測定をおこなう。
フローテーション法のよいところは、住居址の年代と炭素14年代測定値、そして必要に応じての破壊検査で確実に年代がわかることである。


那須さんが描いたフローテーション器具 
なぜ、縄文時代のマメを探すのか?
 縄文時代は狩猟採集の時代であって、農耕はなかった。米が長江流域から伝搬してきてから日本列島で米の栽培、農耕が始まったとされている。でも、よく想像してみると日本人の先祖である縄文人(新石器時代人)が裸同然で野山を駆け回って1万年以上も暮らしていたとは考えにくいし、考えたくない。貝塚や湿地帯の遺跡からは縄文人骨が発見されている。長野県安曇野の北村遺跡の300体の人骨もその一つだ。そこを研究した赤沢威(シリア・デデリエ・ネアンデルタール人復活プロジェクトリーダー)は、人骨のコラーゲン分析をした結果、植物性の食べ物に大きく依存していたことがわかった。特にドングリ、クリ、クルミなど堅果類中心だったとおもわれる、と発表している。
 さらに植物性タンパク質を摂るためにというと大げさになるが、縄文人が自然観察をしてマメもよい食べ物ではないかと考えたのに違いない。ダイズはモンゴロイドの食べ物で東アジアに広く分布していた。アズキも東アジア原産である。ダイズの野生種はツルマメ、アズキはヤブツルアズキである。ダイズの栽培種は野生種より体積では10倍大きいがタンパク質は野生種の方が5~10%多い。この素晴らしい資源を賢い縄文人が放っておくわけがない、彼らは品種改良に務めたらしく、縄文時代中期4,500年前には大型のダイズ属種子が出てきている。現在行っている「縄文時代中期のマメ栽培化過程の解明」で、ダイズ属とアズキ亜属のマメ、もっと大きなサイズのマメをたくさん探し求めている最中である。




 次のブログでは、土器に残されている圧痕(小さな穴)に印象材シリコン(歯医者で使う)を入れて型取りをする方法でマメを探すレプリカ法について書こうと思う。
 

2015年2月11日水曜日

スイス・ヌーシャテル湖畔へ ラテニウム

水中考古学
 文化庁は「遺跡保存方法の検討ー水中遺跡ー」の研究成果をまとめた調査報告書(平成12年度)を出している。
 この調査報告書のはじめに「日本における水中遺跡調査の歩み」が記されており、注意深く読んだ。日本の水中出土遺物への関心は、江戸時代にあたる18世紀中頃以降からあった。各地の好古家たちによって、琵琶湖の沖島付近では石鏃が、讃岐高松海中からは磨製石剣、また野尻湖からは石斧などが、当時から発見されていたのである。
 近代日本の考古学黎明期であった明治41年(1908年)には、長野県諏訪湖底から石鏃が発見された。この発見は、諏訪の高島小学校代用教員であった橋本福松が、「曽根」と呼ばれる水域でしじみ鋤簾で地質調査していた時に2個の石鏃が引っかかったものだ。彼は「東京人類学雑誌」24巻278号(明治42年)に「湖底に沈んだ遺跡だ」と自説を論じた。しかし、同じ雑誌の同じ号で、日本の近代考古学始祖ともいえる坪井正五郎は、湖底に遺物のあることを検証し、杭上住居趾の存在を提唱していた。


諏訪湖
 坪井正五郎は明治22年(1889年)から25年(1892年)の3年間、英国に留学した。その35年ほど前に、ヨーロッパでは湖上住居趾が発見されていた。彼はそれを実際に見分して興味を抱き、日本にも石器時代杭上住居の跡があるはずだと考えるようになった。これに対し、帝国大学地質鉱物学者 神保小虎は、水位の変化、断層活動による地盤沈下など土地陥没説を唱えたので、ここに曽根論争というものが巻き起こった。
 大正時代に入り、この論争について検証をしようと坪井の愛弟子鳥居龍蔵をはじめ、八幡一郎、両角守一たちが曽根湖底の調査を行ったが、結論はでなかった。
 新たな説が生まれたのは、戦後になってからのことである。昭和35年、直良信夫が湖上増水説を提案し、藤森栄一が「諏訪湖曽根の調査」を発表した。その中で藤森栄一は、曽根は陸続きの岬であったが、湖底に沈んだ遺跡であると断定した。そして水底調査の必要性を説いたが、当時の技術不足と資金難から実現せず、今日に至っている。

水上生活とその不思議さ
 水の上の生活、湖上住居で暮らした人々のことは、私にとって何かしらロマンティックな想いを抱かせる。何故なのかと考えると、そこには非日常的な日常があるからだ。私が思い浮かべる水上生活は、チチカカ湖にバルサを組んで生活をするペルーの人々、タイ・バンコクを流れるチャオプラヤ川のトンブリの水上生活をする人々、さらにその上流にあるダムヌンサドアック水上マーケットなどでの日常生活である。タイ・バンコクは東洋のベニスと謳われていた。その本家本元の「水の都」ヴェネツィアを訪れるたび、水の音を聴き、反射する水の光に目を細めながら、自分の立っている下は水しかないという危うさを感じる。陸に立つ感覚の確たるものとは違う。それなのに、人々は素知らぬ顔で日常生活を営んでいるその不思議さに酔う。

ワットアルン(トンブリ側) 
ヴェネツィア
  湖上生活、杭上生活の不思議さに魅かれる私は、スイス・ヌーシャテル湖畔に古代の湖上生活をした人々がいたことにずっと興味津々だった。1967年にジュネーブに住んだが、その時ヌーシャテルへは行かなかったことを、ずっと心残りに思っていた。しかし2013年夏、ヨーロッパをドライブする家族旅行計画が持ち上がった折、計画立案者の私は、これ幸いにとヌーシャテル湖畔の考古学博物館ラテニウム訪問を組み入れた。

ヌーシャテル湖北岸へ
 2013年7月9日、スイス・ローザンヌからヌーシャテルへ向かった。この年の夏はサハラ砂漠からの熱風がヨーロッパ全体を覆いつくしていた。その前夜に泊まったジュネーブ湖畔ローザンヌのウーシーもムウっとする暑さで、日本の熱帯夜のようだった。スイス高速道路1号線を北上し、5号線からヌーシャテル湖北岸へ出た。目指す考古学博物館ラテニウムは、ヌーシャテルの街からさらに20kmほど走ったオーテリヴ(Hauterive)にある。車から降りると、とにかく暑い。カンカン照りの場所にある有料パーキングはスイスフランのコインが必要だが、手持ちがない、それで建物の裏手にあった職員用と思える日陰に澄ました顔で駐車した。眩しいし、暑いし、広い敷地の中、博物館入り口にたどり着くまでも日陰を選んで歩いた。エアコンがあったかどうか忘れてしまったが、建物の中は涼しかった。
考古学博物館の入り口
ラテニウム考古学博物館ができるまで
Lateniumの全体図 
 ヨーロッパでは1857年の冬季に大旱魃がおき、スイス・ヌーシャテル湖北岸のラ・テーヌ村でも水位が下がり、湖底があらわになって木杭列が出現した。他にも鉄製の武器や装飾品が多数発見され大騒ぎになった。その後、さらなる発掘と研究が行われ、1952年にそれらの遺物を収蔵するために、ヌーシャテル県立美術館に別館が建てられた。1960年代に入ると、ジュラ山脈からの水路工事や国道5号線の工事が行われ、またもや無数の考古学的発見があった。そこで1979年から新しい考古博物館の設立へ向けての動きが始まり、2001年にスイス最大の考古博物館ラテニウムが完成した。2011年にはスイス(56ヶ所)、ドイツ(18ヶ所)、オーストリア(5ヶ所)、フランス(11ヶ所)、イタリア(5ヶ所)、スロヴェニア(2ヶ所)にまたがる「アルプス地域の先史時代湖上生活跡群」が世界遺産として認定された。それ以来、ラテニウムはヨーロッパ大陸の古代史研究の中心となって各国にネットワーク網を広げている。

コンセプトは「知識と夢」
子供たちの考古学的?遊び場
大きな池でも遺跡の保存
 スイス・フランス国境にまたがるジュラ(Jura)山脈の南山麓にあるラテニウム考古学博物館と考古学公園は、ヌーシャテル湖の水際にある。公園は無料で、一年中開放されている。公園には復元家屋やマンモスの滑り台があり、子供たちの遊び場になっているし、大人は広大な敷地を自由に散策できる。しかし、この日の暑さでは散策はしたくなく、日本の遺跡の復元家屋と同じようだと思いながら、復元家屋の写真を撮るだけにした。

 考古学博物館の常設展示は、ゆるやかなスロープを歩きながら、現代から過去に遡っていく形式をとっている。建物の階数は2階半ぐらいだと感じたが、もちろん急ぎの人用に階段もエレベーターもあった。行きは順路どおりに進んだが、帰りは直帰用の階段を降りた。
スロープと階段
①はじめに
地中海から北海へかけて(ヨーロッパとは書いていない、古代にはヨーロッパという概念はなかった!)考古学的視点からみた人類、時代、環境について。
水中での発掘、保存の仕方などを実際に再現している。
発掘の様子を水中保存


②ルネサンスと中世:A.D.1600~A.D.476
1011年に建てられたNeuenburger城の模型や城壁の石材。聖人像など。  

③スイスの古代ローマ:A.D.476~1B.C. 
スイスで一番美しいといわれるローマの宮殿 The Colombier villaの出土品。

④5000年前の船:400B.C.~4400B.C.
古代ローマの船や湖上生活者の使った丸木船の展示。



⑤鉄器時代ラ・テーヌ文化 : 1B.C.~800B.C.
ラ・テーヌ文化とは、発見場所であるラテニウムのあるラ・テーヌ村から名前が付けられたヨーロッパを代表する鉄器時代文化である。このラ・テーヌ文化は、青銅器時代から鉄器時代初期(1200B.C.~500B.C.)にオーストリア南部に興ったハルシュタット文化の流れを受け継いでいる。その文化は中央アジアからやってきたインドヨーロッパ語族ケルト諸派民族がもたらしたもので、馬と車輪付き馬車を中央ヨーロッパに拡めた。ハルシュタット文化はギリシャやエトルリア(古代ローマに滅ぼされた文化)の影響を受けて、ラ・テーヌ文化(500B.C.~A.D.200)へと発展した。ヨーロッパ大陸のケルト鉄器文明といわれているが、近年になってケルトとはまた別ものという説もでてきている。

⑥湖上生活者:800B.C.~5500B.C.
青銅器時代から新石器時代まで。スイスと聞いて思い浮かべる古代の湖上生活者の様子が展示されている。湖上集落の模型、青銅器でできたたくさんの釣り針、石鏃、網かご、琥珀の玉などの出土品。その中でも復元された蓑笠は、日本のものかと見紛うばかりだ。ここの展示は一番時間をかけて見て回った。







⑦中石器時代から前期旧石器時代の狩猟者たち:3500B.C.~13,000B.C.
狩猟採集の人々の暮らしを展示。


⑧氷河時代のスイス:13,000B.C.~40,000B.C.
凍った寒さを感じる展示だった。

⑨中期旧石器時代 Great Bear Country : 40,000B.C.~100,000B.C.
なぜか大グマの世界だったらしい。いろいろな種類の動物の骨が展示されていた。Cotencher洞窟で見つかった人類の骨もあった。

 なだらかなスロープを上りながら古代へ古代へと歩いて行く、楽しい旅だった。

 帰りにミュジアムショップに寄って、ガイドブックともう一冊本を買ったが、残念なことに英語版はなかった。フランス語かドイツ語、ドイツ語なら解読できる娘がいるのでドイツ語にしたが、私には写真しか分からない。2013年当時、ウェブサイトもスイス公用語であるフランス語・ドイツ語・イタリア語でしか載っていなかったが、2014年から英語も加わった。それで少しは理解でき、整理がついたので、このブログを書くこととした。www.latenium.ch 

2014年11月21日金曜日

忙しかったこの秋の〆は十日町のイタリアン(青柳文化庁長官のイタリアと日本の考古学の話)

 ツタウルシが赤くなってきたのに気づいたのは、10月12日頃だった。それからというもの、今年の紅葉はあれよあれよという間に進んだ。我が庭自慢の大きなドウダンツツジもてっぺんが深紅に染まり、瞬くうちに木全体が燃えるようになったかとおもうと、落葉してしまった。その後の紅葉ははかばかしくなかったものの、朝霧に沈んだ紅葉、陽に輝く紅葉は素晴らしかった。モミジのカーペットが敷き詰められると、今年の庭の紅葉も終わった。





 この秋はまず、10月18日に縄文阿久友の会の秋季研修が開かれ、長野県立歴史博物館を訪れた。そこでは、滅多に入ることのできない収蔵庫を案内していただいた。北村縄文人の骨、平安時代の鹿の骨で作られた極小サイコロ、樹脂で保存された木片や舟を課長の愉快な説明つきで見学し、参加者は大いに盛り上がった。見学を終え、博物館を出て建物の後ろの山頂を見上げると、色づいた木々の中に森将軍塚古墳を確認できた。

北村縄文人
古代のサイコロ


 秋になると、鎌倉の94才になる伯母が八ヶ岳に遊びにくるのが常となっている。今回は胆のうの具合が悪く、脂っこいものとアルコール類は禁止中だった伯母は、北杜市にあるアイリッシュパブ「ブル&ベア」で好きなギネスを飲めず、ホテルでお留守番は気の毒だった。でも、原村八ヶ岳自然文化園にあるフレンチレストラン「原村菜園」では「牛肉ではなく鶏肉になさい」と従姉に制しられ、不承不承ながらもしっかり食していたので安心した。美人で、頭も心も元気な伯母は私の自慢!
94歳の伯母は父の妹

  私たちには父親同士、母親同士、娘同士が同学年で友人という珍しい仲良し一家がいる。先月もその夫妻が蓼科東急リゾートマンションに来たので、一緒に上高地へいくことになった。秋の上高地は初めてだし、夫と二人連れでなく、友達との紅葉狩りということで、喜び勇んで出かけた。その日、10月24日は、とっておきの素晴らしい天気に恵まれ、大正池から河童橋まで散策した。人出も少なく、ゆっくりのんびり上高地の秋を楽しむことができた。ランチはもちろん、上高地帝国ホテル「アルペンローゼ」のハッシュドビーフかけのオムライス! 



 その次の夕刻、蓼科のマンションにキノコ鍋をご馳走になりに行ったところ、窓から御嶽山が真正面に見えた。夕陽が御嶽山頂に落ち、雲の中に噴煙が拡がり、それが黒くたなびいてみえた。なんという光景、噴火で亡くなった登山者に祈りを捧げながら、暗くなるまでその景色に観入ってしまった。


 11月5日には「縄文農耕を問う」というプロジェクトの仕事の一端として、葉山にある総合研究大学院大学へ山越えのドライブをして、豆入り焼成実験土器を10個運んだ。ルートは甲府の御坂道ー河口湖ー山中湖ー篭坂トンネルー御殿場(東名)秦野中井ー二宮ー葉山。東富士五湖道路沿いの木々の紅葉はもう終わっていたが、黄金の唐松に映える富士山は美しかった。帰途は横浜歴史博物館での「大おにぎり展」に立ち寄ったので、横浜町田ー東名ー圏央道ー中央道のルートをとった。
植物考古学の研究室で
大おにぎり展で

十日町のイタリア

 葉山行きの3日後の11月8日、新潟県十日町市博物館35周年記念特別講演会があるというので、十日町まで遠征した。「イタリアの考古学 日本の考古学」講演のテーマに魅かれたからだ。講演者は青柳文化庁長官。彼は1969年東大を卒業したのち、ローマ大学に留学し、それから40年間イタリアの発掘に携わっている。ポンペイ1974〜1976年、アグリジェント1979〜1986年、タルクィニア1992〜2005年、ソンマ・ヴェスヴィアーナ2002年から現在に至るという具合だそうだ。

 ポンペイの廃墟へは1967年に行ったことがある。その当時、見物の人影はほとんどなく、警備員だけが目についた。遺跡の中を好き勝手に夫とウロウロしていると、警備員の一人が手招きする。彼についていくと、地下室に案内してくれた。そして「ほらそこ」と指差した。そこには溶岩に飲み込まれた人間が二人石膏になっていた。立っているわけでもなく、座っているわけでもない。警備員は面白そうに目をクリクリさせた。そこで「アッ!」と分かった。あの瞬間の姿が石膏になっているのだ。でもかわいそうなことに、ふたりは引き離されても、あの格好のままでいた。

 ポンペイからさらに南に下り、シチリア一周ドライブ旅をした私たちは、アグリジェントにも立ち寄った。ギリシャの神殿が美しいとミシュランガイドにあったからだ。そのギリシャ神殿は、広大な土地の海の近くの高台に建っていたと覚えている。他には何もなかった、まだ発掘がされていなかったのだろう。歩いていると、羊飼いが寄ってきて、手のひらを開げ、ローマ銀貨(金貨ではなかった?)を見せた。「欲しい」と一瞬思ったが、マフィアが木の陰から飛び出てきて、身ぐるみ剥がされると怖いとおもったので断った。いまでも時々、夫と「あの銀貨もらえばよかったね」と未練がましく話したりしている。

 講演で青柳長官は、古典考古学すなわちヨーロッパ人の魂のふるさとであるギリシャ・ローマの考古学を力説した。しかし、このところのヨーロッパの考古学は、18世紀以来の古典の呪縛(ギリシャ・ローマ)から解放され、足もとの地道な考古学に励んでいると昨年のヨーロッパ旅行で感じていたので、ギリシャ・ローマという古き良き時代の話は少し物足りなかった。

 少しがっかりしていたところ、おもわぬ拾いものをした。午後5時半過ぎに講演が終わり、十日町の地図を見ていた夫が近くによさそうなイタリア料理店があるという。こんなところでイタリアンとおもったが、空腹には勝てずそこに向かった。店は講演会場「クロス10ホール」の隣にある「キナーレ」という建物の二階にあった。クロス10だの、キナーレだの、不可思議なネーミングだが、十日町市は「越後妻有トリエンナーレ」という芸術祭を開催しアートで町おこしをしている。このキナーレという建物もイタリア人の設計で、モダンアートの展示室があるとおもえば、温泉(テルメ)もある。それにイタリア料理「越後しなのがわバル」という店は、アンティパスト、メイン、デザートときちんと揃っており、しかも地産地消の「妻有ポークのビール煮込み」「村上サーモンのカルパッチョ」「八海山雪えびのフリット」「妻有キノコとスモークサーモンのあつあつグラタンピッツア」は、それぞれ、久しぶりに「おいしい!」と唸った。今年の秋の〆は十日町のイタリアンとなったようだ。 

十日町は国宝火焔型土器でも有名

越後しなのがわバル
2つのおまけ
  この秋の話にはおまけがついてしまった。11月15日、富士川沿いの国道52号線を下った。登呂博物館での「八ヶ岳山麓から駿河湾へ」という縄文時代から弥生時代への展示を見に行き、尖石縄文考古館の山科学芸員と井戸尻考古館の小松学芸員の講演を聞いた。Jomonフリークの私は八ヶ岳山麓から彼らのおっかけをしたわけだ。その次の日16日はベトナム人でアステラス製薬在ウィーングループ会社から東京赴任中のトゥイが遊びに来たので、奈良井宿そして福島宿をぶらぶら歩いたが、木曽谷は冬だった。
登呂遺跡
オウサム福島宿