2016年11月30日水曜日

2016年のドライフラワーリース



   クリスマス🎄一ヵ月前に20cmもの雪に見舞われたが、3日で消えた。やはり本格的な冬が来るのはもうちょっと先だと、ひと安心した。さあ、クリスマスのお飾りを用意しなくてはと、今年のドライフラワーが出来上がったばかりのピース農園を訪ねた。今年の出来は雨☔️ の割には良かったそうだが、アンモビュームとヘリクリサムはダメだった。なんと言うこと❗️アンモビュームは美しいハッキリした白で、アレンジにやさしさを加えることができる。ヘリクリサムはポピュラーな花だけど、色がたくさんあり、アレンジに加えやすい花だ。

   フラワーデザインの講師を辞めて10年近くなるから、ピース農園のドライフラワーを使って作るのは、自分のための大きなリースと今年お世話になった方々へのギフト用リースやブーケだ。

   2016リースは、去年作ったローズマリーリースを土台にしたもので、大きさは外径60cm。下の他の写真はギフト用のリースとブーケ。

    ローズマリーのリース

    クリスマス用にツリー型キャンドルを装着😊







2016年11月23日水曜日

Pax Americanaの行くえは?



  アメリカ大統領選挙ではトランプの勝利で終わった。一日本人としてはどっちを応援しても詮無いこととはいえ、大統領になったクリントン女史の顏をニュースで頻繁に見なければならないとなると、シンドイことだと思っていた。だからあのオモロイオッチャンが次期大統領になるのは悪くないというのが、このオバサン否、バアサンの感想である。

 それにしても日本政府、マスゴミ、知識人で私の感想をまともにバックアップしてくれるコメントは見つからなかった。では無い知恵と頭を絞って、まとめてみようかと思っていた矢先、知人のニュースレターに実に的確なコメントが記されてあった。早速、許しを得て下記に記載させていただく。

Donald Trump次期大統領のアメリカ・ファースト(アメリカ第一主義)は至極当然のことだ。


  1950年代までのアメリカは、感覚的に明るい太陽のもと、大型のアメ車に乗り世界一の富んだ経済を謳歌していた。州立大学の授業料は、今のように高くなく学位を取って、良い仕事を得て、幸福な家庭生活を送り、老後はサンシティーのような街ごと養老院のような場所で終末期を過ごすというパターンだった。
 

   そのアメリカの歯車が狂いだしたのが、ケネディ大統領の暗殺、次のジョンソン大統領時代の公民権運動による国民の分断、そしてジョンソン大統領とマクナマラ国防長官によるトンキン湾事件から深みにはまるベトナム戦争の遂行となった。反戦運動の最中、オハイオ州立大ケント校での州兵による学生射殺事件。サイゴンの米大使館からヘリコプターでの脱出・敗戦と続いた。
  
  次の大きなまさかは、アメリカB(アメリカの闇)によるとみられる911事件、それを待っていたように米国のアフガニスタン攻撃は、大国による大義の無い戦いだった。アフガニスタンでは、911事件の2日前にタリバンなど国内のゴタゴタを押さえるのに成功しつつあり英雄として慕われていたアフガニスタン北部司令官のマスード氏の暗殺が起きた。


  独裁政治が未来永劫続くのは、良いとは言えないが国の発展段階によっては必要なモノであると思う。米国はその国の事情を勘案しないで、イラク進攻でフセイン大統領を、リビヤでカダフィー氏を殺害した。今また アサド大統領が気に入らないとシリアを混乱に陥れ 結局は米国の力を弱め グローバリズムは評価半ばにして見直しを強いられている。
 
  トランプ氏は、グローバリズムを否定してアメリカが強い国になろうとしているのではない。 先ず、落ちた国力を元に戻し、努力すれば成功するという基本理念に立ち返って、諸政策を実行
していこうとしている。米国内で湧き上がっている99%格差問題は、大して努力していない輩が強欲に富を独占し、一般大衆に機会が十分与えられていないことにある。日米ともに、格差問題の解決は富裕層に脱法行為を許さず、税をかけ、若い層に機会を与えることにある。
 
  トランプ氏も開かれた市場に反対するわけはなく、ただ現在の状態で安倍内閣の意図にあるTPP中国包囲論には乗ってこない。日本もひたすら日本・ファーストで政策を進めるべきで、防衛安保、食糧安保には最優先でリソース配分を行わなければならない。海外へのバラマキは最優先事項ではありえない。慈善事業は、家庭の満足からというではないか。記2016・11・14

 
 トランプ次期大統領に会えてウハウハしている脳天気な危ないニッポンの首相は、もっと世界の情勢に目を向けなければならない。ヨーロッパからの便りによると、ヨーロッパ各国はトランプ次期大統領の出方を見守っているのだ。
  ともあれ、何かにつけてやり玉に挙げられるポリテカル・コレクトネスに関してはさておき、見栄を張らない(本音を言う)大統領というのには期待できる。トランプ次期大統領は娘や息子をきちんと育てているのだから。あのジョージ・ブッシュのアホな息子よりもマシな大統領になること請け合いだ。

2016年6月25日土曜日

大英帝国のEU離脱

                            BBC Newsの写真より

   2016年6月23日、日本時間では24日朝から、英国のEU離脱でテレビ番組は大騒ぎしている。このトバッチリが日本にふりかかってきたらどうするとテレビは日本国民を脅迫し始めた。英語が通じて簡単だからとポンドの国に進出して、ユーロのEU相手に儲けようとしたのがそもそもの日本の企みだっただろうに。



  大英帝国の見栄だとか、EUが規制のし過ぎだとか、いろいろと考えを廻らせていた。その折、EU内に住んでいる娘から届いたメールを読んで腑に落ちた。

2016年6月24日付け メール
Brexitは、EUにはざまあみろだね。無意味な規制が多すぎるのと、無駄遣いが多すぎる。EU関係者の特権が多すぎるんだよ(国連もそうだけど)。イギリスの漁師さんは、EUのくだらない規制のおかげで、自由に漁ができなくなった。農業でもそうだ。EUの規定では、曲がったキュウリは売っちゃいけない。ばかだよねー。カフェやレストランでの喫煙・禁煙のルールも振り回されているし、大学の制度もムリムリ統一化するからレベルの低下を招いているし、無理な規定が多すぎた。そもそも無理だよ。ヨーロッパといっても、各国、個性が強すぎるもん。EC/EUが誕生して以来、どの国も経済効果や規制緩和でEU加盟の恩恵を被り、ある程度豊かになれたんだから、これからは各国が自立して、別の形で協力していくべきなんじゃないだろうか。今は何もかもEUが仕切ってるもん。EUは何様だ。EU以外の国への差別が大きすぎるし。

EU加盟国というステータスは、高収入の職業に関してはメリットが多いけど、第一次産業は大打撃を受けたのにほったらかしにされてたから、小さな国民の不満が高まったんだ。しかも、国民を啓蒙しないから、わけがわからないまま、不満が募ったんだよ。きちんとEUのメリットを説明して、規制に即した生産方法の方向づけをしたりしてたらよかっただろうけど。

何が恐ろしいって、ゴクウ(極右だが嫌味を込めてゴクウとよんでいる)が教養のない国民を煽動する動きが高まっているのが恐ろしい。オランダやフランスなんか、本当はもっと暴れたいんだろう。どこもますます二極化が進んでいる。日本もアホな国民が多いけど、賢そうにしている欧州も過半数はアホなんだ。知識不足なんてのは、今のような情報社会なら調べて集めて補えるんだから、物事を多面的に考える訓練としての教育を浸透させていかないとねー。

とにかく、暴走してるEUが変化するいい機会だよ。上層が好き勝手をして、一人歩きし過ぎた。イギリスはそういう意味で、勇気を持って民主的な形で国民に意見を問い、EUに疑問を投げかけてくれた気もするんだけどね。

そもそもさ、英国の通貨はユーロじゃなくてポンドなんだから、100%EU加盟国じゃなかったよねー。

2016年6月18日土曜日

メルク修道院


  オーストリアの首都ウィーンから特急・普通列車を乗り継いで約45分、ウィーン北西85kmの場所にベネディクト会のメルク修道院はある。「ああー、あのウンベルト・エーコの『薔薇の名前』の舞台となったとこ」と大方はうなずくが、厳密に言うと舞台となってはいない。主人公のアドソ修道士が属していたのがメルクのベネディクト会修道院なので、彼は「メルクのアドソ」と呼ばれている。そしてメルク修道院のキンキラキンの豪華な図書館が、『薔薇の名前』の舞台となった北イタリアはドロミテ山塊の天を突くような岩山の上に建つ、修道院の図書館のイメージとなっているだけだ。


  ベネディクト修道会は、聖ベネディクト(480-547)によって6世紀、ローマ近郊モンテ・カッシーノで始められたローマ・カトリック教会の修道会である。西ローマ帝国が崩壊し、ローマ・カトリック教会が公認されて間もない時代に、ローマ貴族の血筋を引くベネディクトは修道生活に入った。その当時の修道生活とは、個人単位で隠とんし、苦行と祈りの生活を送ることだった。そうした中、ベネディクトは新たに共同生活・祈り・もてなし・学びを軸とした修道生活の規範を作り、それがその後に続く全ての修道院生活の基礎となった。


  メルク修道院は11世紀、バーベンベルグ家のレオポルド2世が、メルク砦の城をベネディクト修道士らに寄進したことに始まる。そして12世紀には、修道院図書館は写本収集と写本生産で重要な拠点となった。この見事なバロック建築は18世紀初頭に建てられたもので、マリー・アントワネットがパリへ輿入れの途中に泊まったことでも知られている。
 
 そのメルク修道院に2016年5月16日、F神父さまを訪ねて赴いた。世界的に有名なメルク修道院に知り合いの神父さまがいらっしゃるなどということは信じられないことだ。実は、我が家から歩いてほんの3分の所に、ベネディクト会富士見修道院がある。昨年夏、その富士見修道院にメルク修道院からF神父さまが日本旅行の途中に立ち寄られた。ちょうどウィーンから帰省中の娘と共に、涼しい風がそよぐ高原の夏の午後、庭で楽しいお茶のひとときを過ごした。

  メルクに着いた日は薄ら寒く、雨が降ったり、突然強い風が吹いたりの散々な空模様だった。メルク修道院正面ゲートで待つこと数分、ベネディクト会の黒いハビット(修道服)を纏ったF神父様が現れた。修道院の宿泊担当でいらっしゃる神父様のオフィスに案内された。ベネディクト会修道院は「おもてなし」、つまりホスピタリティも重要な修道院の仕事で、客人を分け隔てなく宿泊させてくれる。オフィスでは、神父様のご友人の親子が待ち受けてくれていた。南ドイツ出身のF神父がオーストリアのメルクに着任して以来、15年以上の聖歌隊でのお仲間だそうだ。背の高い息子さんは構内にある修道院付属学校の生徒で、生徒数は現在約600人、男女共学だと話していた。コーヒーをご馳走になりながら1時間ほど歓談し、正午の祈りのために「PRIVAT(関係者以外立ち入り禁止)」と書いてあるドアを何回もくぐって大聖堂へ向かった。黄金に輝く大聖堂では、修道士の席で正午の祈りを捧げた。普通は入れない所なので、誇らしく思うとともに緊張しながらお祈りをした。


 祈りの後、お昼をご一緒にと神父様をお誘いしたら、街に下りていくか、修道院内の観光客用のレストランへ行くか、しばらく考えていらしたが、結局は構内のレストランへ行った。そこは明るい新築の建物で、席はほぼ満員のようだったが、愛想のよいウエイトレスが対応してくれた。この時期のヨーロッパは、何と言ってもホワイトアスパラガスのシーズンだ。私はアスパラガスと生ハムのポテト添えの一皿を、神父様と娘はアスパラガスのリゾットを注文した。食後のコーヒーは修道院庭園の東屋でと、神父さまの粋な計らい。18世紀に描かれたエキゾチックな動物が壁いっぱいに描かれた東屋で、ゆっくりとエスプレッソを飲んでいたら、外は大雨になった。しばらく休んでいると雨は去り、薄日が差してきたので広い庭を散策した。途中、修道院に似つかわしくないプレハブの建て物があった。シリア難民の為のものだという。 



  修道院内見学は、日本語のガイドがいるからその人と回ってくるようにと、手配してくださった。そのガイドはなんと、娘のウィーン大学での教え子で日墺ハーフの人であり、しかも以前、知り合いのご一行がメルクを見学した時のガイドを務め、感じのよい人だと未だに大評判の「メルクのフローリアン」だった。
 
 
 見学を終え、神父様に辞去の挨拶をしようと正門前で待っていると、神父様は先ほどのハビットでなく私服で現れた。それを見て、娘は「ドイツ人らしい色の取り合わせだなあ」などとつぶやいていた。神父様に、これから船でデュルンシュタインへ行き、ホテル獅子王リチャードに泊まると話したら、「今日は川の水が増水していて心配だから、車で送ってあげよう」とおっしゃった。その日の川は「美しく青いドナウ」ではなかったが、ドナウ川にピッタリ沿った道を神父さまの運転でドライブし、ドナウ川と葡萄畑の景色を堪能した。
 
 
  メルクからデュルンシュタインまでの地域は、ユネスコに登録されている「バッハウ渓谷の文化的景観」の一部である。バッハウ渓谷はドナウ川下流クレムスから上流のメルクまで約35kmの区間で、ドナウ川一番の景勝地である。
 
 

2016年4月28日木曜日

木曽谷 はなもも街道

  去る4月25日、南木曽町、大桑村、上松町、木祖村、王滝村、塩尻市が申請していた「木曽路はすべて山の中〜山を守り 山に生きる〜」が日本遺産に認定されたということだ。
  兵庫県西宮市から長野県富士見町へ行くには国鉄中央西線か国道19号線しかなかった時代の思い出といえば、木曽川の景勝地「寝覚の床」を通りがかる毎に「何で浦島太郎がここで目を覚ましたの?」と不思議に思ったこと、「くるまや」でお蕎麦の美味しさを知ったことだ。中央道が開通してからは、トラックに前後挟まれての渋滞19号から解放されたが、それと同時に木曽路とは縁が遠くなった。

  中央道は、天竜川の河岸段丘と盆地が続く伊那谷に沿って走っている。伊那谷と木曽谷とはほぼ平行しているから、木曽山脈(中央アルプス)を越せば伊那谷と木曽谷は行き来できる訳だが、山々の難所で阻まれていた。やっと10年前、2006年に立派な権兵衛トンネルが開通したので、伊那谷から木曽谷へ簡単に行けるようになった。ということは、現在住んでいる富士見から木曽へ行くのも便利になった。

 もう一つ 、伊那谷と木曽谷を結ぶ山の中の道がある。それは清内路村を通って行く道だ。19号線を走っていた頃から清内路という名前になぜか心惹かれていた。そこの峠は冬季通行止めだったので、清内路という村はさぞ辺鄙な場所だろうと思って調べたら、そこは木地師の村だということを知った。木地師は白洲正子の本で知ったのだが、轆轤(ろくろ)を使って木の椀や盆を作る人々のことをいう。漆器の好きな私は、いつか清内路村の漆畑に行きたいと考えていた。


  清内路村へはいつもは通過点でしかない中央道・園原インターから行ける。しかも、「はなもも街道」と名付けられたその道は、清内路村から南木曽町の妻籠宿へ、さらに19号線に抜けられる。昼神温泉では花桃が満開だと聞いて、今年4月14日に出かけた。

  昼神温泉のある阿智村は花桃が満開だったが、園原インター近くの月川温泉の花桃の里は、まだまだ寒々しい風景であった。これでは清内路もまだ咲いていないなと危ぶんでいたが、その予感は的中した。清内路は桜が満開だったが、花桃はまだつぼみだった。清内路村漆畑の木地師の店を2軒ほど見て回り、カネキン小椋製盆所でフリーカップ(多用途カップ)を買い求めた。




   漆は縄文時代からの日本の伝統技術である。漆は大陸から伝わったと言われてきたが、近年の研究で、漆の木は日本原産ではないが、古代から漆を使う技術はどこよりも抜きん出ていたことが分かっている。日本はJAPANなのだ。縄文時代の遺跡で有名な福井の鳥浜貝塚、青森の是川遺跡では素晴らしい漆器の飾り櫛、椀、弓などを見て、うっとりとなった。小さい頃、和歌山の祖父の家で漆の高膳に並んだお椀類を触って育ったので、陶器より漆器の方が私にはしっくりくる。


  清内路峠には新しいトンネルができ、道も整備されていて走りやすかった。その後、妻籠宿をぶらぶら歩き、平たい三河の五平餅とは違う、コロコロした丸い五平餅とお蕎麦を味わった。それから19号線に出て福澤桃介記念館に入り、懇切丁寧な説明を受けた。桃介がミュンヘンから花桃の苗木を持ち帰って木曽の発電所に植えたのが、今や木曽谷のあちらこちらで見られる美しい花桃の始まりという。しかし、花桃を広めた福澤桃介は少しヤクザっぽくてあまり感心できないような人に思えた。
  (福澤桃介は木曽谷数カ所に発電所を作り、電力王と言われている。福澤諭吉の婿養子だが、川上貞奴との仲は公然の秘密であった。)


                                      上の写真は福沢桃介記念館の花桃