2016年6月25日土曜日

大英帝国のEU離脱

                            BBC Newsの写真より

   2016年6月23日、日本時間では24日朝から、英国のEU離脱でテレビ番組は大騒ぎしている。このトバッチリが日本にふりかかってきたらどうするとテレビは日本国民を脅迫し始めた。英語が通じて簡単だからとポンドの国に進出して、ユーロのEU相手に儲けようとしたのがそもそもの日本の企みだっただろうに。



  大英帝国の見栄だとか、EUが規制のし過ぎだとか、いろいろと考えを廻らせていた。その折、EU内に住んでいる娘から届いたメールを読んで腑に落ちた。

2016年6月24日付け メール
Brexitは、EUにはざまあみろだね。無意味な規制が多すぎるのと、無駄遣いが多すぎる。EU関係者の特権が多すぎるんだよ(国連もそうだけど)。イギリスの漁師さんは、EUのくだらない規制のおかげで、自由に漁ができなくなった。農業でもそうだ。EUの規定では、曲がったキュウリは売っちゃいけない。ばかだよねー。カフェやレストランでの喫煙・禁煙のルールも振り回されているし、大学の制度もムリムリ統一化するからレベルの低下を招いているし、無理な規定が多すぎた。そもそも無理だよ。ヨーロッパといっても、各国、個性が強すぎるもん。EC/EUが誕生して以来、どの国も経済効果や規制緩和でEU加盟の恩恵を被り、ある程度豊かになれたんだから、これからは各国が自立して、別の形で協力していくべきなんじゃないだろうか。今は何もかもEUが仕切ってるもん。EUは何様だ。EU以外の国への差別が大きすぎるし。

EU加盟国というステータスは、高収入の職業に関してはメリットが多いけど、第一次産業は大打撃を受けたのにほったらかしにされてたから、小さな国民の不満が高まったんだ。しかも、国民を啓蒙しないから、わけがわからないまま、不満が募ったんだよ。きちんとEUのメリットを説明して、規制に即した生産方法の方向づけをしたりしてたらよかっただろうけど。

何が恐ろしいって、ゴクウ(極右だが嫌味を込めてゴクウとよんでいる)が教養のない国民を煽動する動きが高まっているのが恐ろしい。オランダやフランスなんか、本当はもっと暴れたいんだろう。どこもますます二極化が進んでいる。日本もアホな国民が多いけど、賢そうにしている欧州も過半数はアホなんだ。知識不足なんてのは、今のような情報社会なら調べて集めて補えるんだから、物事を多面的に考える訓練としての教育を浸透させていかないとねー。

とにかく、暴走してるEUが変化するいい機会だよ。上層が好き勝手をして、一人歩きし過ぎた。イギリスはそういう意味で、勇気を持って民主的な形で国民に意見を問い、EUに疑問を投げかけてくれた気もするんだけどね。

そもそもさ、英国の通貨はユーロじゃなくてポンドなんだから、100%EU加盟国じゃなかったよねー。

2016年6月18日土曜日

メルク修道院


  オーストリアの首都ウィーンから特急・普通列車を乗り継いで約45分、ウィーン北西85kmの場所にベネディクト会のメルク修道院はある。「ああー、あのウンベルト・エーコの『薔薇の名前』の舞台となったとこ」と大方はうなずくが、厳密に言うと舞台となってはいない。主人公のアドソ修道士が属していたのがメルクのベネディクト会修道院なので、彼は「メルクのアドソ」と呼ばれている。そしてメルク修道院のキンキラキンの豪華な図書館が、『薔薇の名前』の舞台となった北イタリアはドロミテ山塊の天を突くような岩山の上に建つ、修道院の図書館のイメージとなっているだけだ。


  ベネディクト修道会は、聖ベネディクト(480-547)によって6世紀、ローマ近郊モンテ・カッシーノで始められたローマ・カトリック教会の修道会である。西ローマ帝国が崩壊し、ローマ・カトリック教会が公認されて間もない時代に、ローマ貴族の血筋を引くベネディクトは修道生活に入った。その当時の修道生活とは、個人単位で隠とんし、苦行と祈りの生活を送ることだった。そうした中、ベネディクトは新たに共同生活・祈り・もてなし・学びを軸とした修道生活の規範を作り、それがその後に続く全ての修道院生活の基礎となった。


  メルク修道院は11世紀、バーベンベルグ家のレオポルド2世が、メルク砦の城をベネディクト修道士らに寄進したことに始まる。そして12世紀には、修道院図書館は写本収集と写本生産で重要な拠点となった。この見事なバロック建築は18世紀初頭に建てられたもので、マリー・アントワネットがパリへ輿入れの途中に泊まったことでも知られている。
 
 そのメルク修道院に2016年5月16日、F神父さまを訪ねて赴いた。世界的に有名なメルク修道院に知り合いの神父さまがいらっしゃるなどということは信じられないことだ。実は、我が家から歩いてほんの3分の所に、ベネディクト会富士見修道院がある。昨年夏、その富士見修道院にメルク修道院からF神父さまが日本旅行の途中に立ち寄られた。ちょうどウィーンから帰省中の娘と共に、涼しい風がそよぐ高原の夏の午後、庭で楽しいお茶のひとときを過ごした。

  メルクに着いた日は薄ら寒く、雨が降ったり、突然強い風が吹いたりの散々な空模様だった。メルク修道院正面ゲートで待つこと数分、ベネディクト会の黒いハビット(修道服)を纏ったF神父様が現れた。修道院の宿泊担当でいらっしゃる神父様のオフィスに案内された。ベネディクト会修道院は「おもてなし」、つまりホスピタリティも重要な修道院の仕事で、客人を分け隔てなく宿泊させてくれる。オフィスでは、神父様のご友人の親子が待ち受けてくれていた。南ドイツ出身のF神父がオーストリアのメルクに着任して以来、15年以上の聖歌隊でのお仲間だそうだ。背の高い息子さんは構内にある修道院付属学校の生徒で、生徒数は現在約600人、男女共学だと話していた。コーヒーをご馳走になりながら1時間ほど歓談し、正午の祈りのために「PRIVAT(関係者以外立ち入り禁止)」と書いてあるドアを何回もくぐって大聖堂へ向かった。黄金に輝く大聖堂では、修道士の席で正午の祈りを捧げた。普通は入れない所なので、誇らしく思うとともに緊張しながらお祈りをした。


 祈りの後、お昼をご一緒にと神父様をお誘いしたら、街に下りていくか、修道院内の観光客用のレストランへ行くか、しばらく考えていらしたが、結局は構内のレストランへ行った。そこは明るい新築の建物で、席はほぼ満員のようだったが、愛想のよいウエイトレスが対応してくれた。この時期のヨーロッパは、何と言ってもホワイトアスパラガスのシーズンだ。私はアスパラガスと生ハムのポテト添えの一皿を、神父様と娘はアスパラガスのリゾットを注文した。食後のコーヒーは修道院庭園の東屋でと、神父さまの粋な計らい。18世紀に描かれたエキゾチックな動物が壁いっぱいに描かれた東屋で、ゆっくりとエスプレッソを飲んでいたら、外は大雨になった。しばらく休んでいると雨は去り、薄日が差してきたので広い庭を散策した。途中、修道院に似つかわしくないプレハブの建て物があった。シリア難民の為のものだという。 



  修道院内見学は、日本語のガイドがいるからその人と回ってくるようにと、手配してくださった。そのガイドはなんと、娘のウィーン大学での教え子で日墺ハーフの人であり、しかも以前、知り合いのご一行がメルクを見学した時のガイドを務め、感じのよい人だと未だに大評判の「メルクのフローリアン」だった。
 
 
 見学を終え、神父様に辞去の挨拶をしようと正門前で待っていると、神父様は先ほどのハビットでなく私服で現れた。それを見て、娘は「ドイツ人らしい色の取り合わせだなあ」などとつぶやいていた。神父様に、これから船でデュルンシュタインへ行き、ホテル獅子王リチャードに泊まると話したら、「今日は川の水が増水していて心配だから、車で送ってあげよう」とおっしゃった。その日の川は「美しく青いドナウ」ではなかったが、ドナウ川にピッタリ沿った道を神父さまの運転でドライブし、ドナウ川と葡萄畑の景色を堪能した。
 
 
  メルクからデュルンシュタインまでの地域は、ユネスコに登録されている「バッハウ渓谷の文化的景観」の一部である。バッハウ渓谷はドナウ川下流クレムスから上流のメルクまで約35kmの区間で、ドナウ川一番の景勝地である。