2015年2月11日水曜日

スイス・ヌーシャテル湖畔へ ラテニウム

水中考古学
 文化庁は「遺跡保存方法の検討ー水中遺跡ー」の研究成果をまとめた調査報告書(平成12年度)を出している。
 この調査報告書のはじめに「日本における水中遺跡調査の歩み」が記されており、注意深く読んだ。日本の水中出土遺物への関心は、江戸時代にあたる18世紀中頃以降からあった。各地の好古家たちによって、琵琶湖の沖島付近では石鏃が、讃岐高松海中からは磨製石剣、また野尻湖からは石斧などが、当時から発見されていたのである。
 近代日本の考古学黎明期であった明治41年(1908年)には、長野県諏訪湖底から石鏃が発見された。この発見は、諏訪の高島小学校代用教員であった橋本福松が、「曽根」と呼ばれる水域でしじみ鋤簾で地質調査していた時に2個の石鏃が引っかかったものだ。彼は「東京人類学雑誌」24巻278号(明治42年)に「湖底に沈んだ遺跡だ」と自説を論じた。しかし、同じ雑誌の同じ号で、日本の近代考古学始祖ともいえる坪井正五郎は、湖底に遺物のあることを検証し、杭上住居趾の存在を提唱していた。


諏訪湖
 坪井正五郎は明治22年(1889年)から25年(1892年)の3年間、英国に留学した。その35年ほど前に、ヨーロッパでは湖上住居趾が発見されていた。彼はそれを実際に見分して興味を抱き、日本にも石器時代杭上住居の跡があるはずだと考えるようになった。これに対し、帝国大学地質鉱物学者 神保小虎は、水位の変化、断層活動による地盤沈下など土地陥没説を唱えたので、ここに曽根論争というものが巻き起こった。
 大正時代に入り、この論争について検証をしようと坪井の愛弟子鳥居龍蔵をはじめ、八幡一郎、両角守一たちが曽根湖底の調査を行ったが、結論はでなかった。
 新たな説が生まれたのは、戦後になってからのことである。昭和35年、直良信夫が湖上増水説を提案し、藤森栄一が「諏訪湖曽根の調査」を発表した。その中で藤森栄一は、曽根は陸続きの岬であったが、湖底に沈んだ遺跡であると断定した。そして水底調査の必要性を説いたが、当時の技術不足と資金難から実現せず、今日に至っている。

水上生活とその不思議さ
 水の上の生活、湖上住居で暮らした人々のことは、私にとって何かしらロマンティックな想いを抱かせる。何故なのかと考えると、そこには非日常的な日常があるからだ。私が思い浮かべる水上生活は、チチカカ湖にバルサを組んで生活をするペルーの人々、タイ・バンコクを流れるチャオプラヤ川のトンブリの水上生活をする人々、さらにその上流にあるダムヌンサドアック水上マーケットなどでの日常生活である。タイ・バンコクは東洋のベニスと謳われていた。その本家本元の「水の都」ヴェネツィアを訪れるたび、水の音を聴き、反射する水の光に目を細めながら、自分の立っている下は水しかないという危うさを感じる。陸に立つ感覚の確たるものとは違う。それなのに、人々は素知らぬ顔で日常生活を営んでいるその不思議さに酔う。

ワットアルン(トンブリ側) 
ヴェネツィア
  湖上生活、杭上生活の不思議さに魅かれる私は、スイス・ヌーシャテル湖畔に古代の湖上生活をした人々がいたことにずっと興味津々だった。1967年にジュネーブに住んだが、その時ヌーシャテルへは行かなかったことを、ずっと心残りに思っていた。しかし2013年夏、ヨーロッパをドライブする家族旅行計画が持ち上がった折、計画立案者の私は、これ幸いにとヌーシャテル湖畔の考古学博物館ラテニウム訪問を組み入れた。

ヌーシャテル湖北岸へ
 2013年7月9日、スイス・ローザンヌからヌーシャテルへ向かった。この年の夏はサハラ砂漠からの熱風がヨーロッパ全体を覆いつくしていた。その前夜に泊まったジュネーブ湖畔ローザンヌのウーシーもムウっとする暑さで、日本の熱帯夜のようだった。スイス高速道路1号線を北上し、5号線からヌーシャテル湖北岸へ出た。目指す考古学博物館ラテニウムは、ヌーシャテルの街からさらに20kmほど走ったオーテリヴ(Hauterive)にある。車から降りると、とにかく暑い。カンカン照りの場所にある有料パーキングはスイスフランのコインが必要だが、手持ちがない、それで建物の裏手にあった職員用と思える日陰に澄ました顔で駐車した。眩しいし、暑いし、広い敷地の中、博物館入り口にたどり着くまでも日陰を選んで歩いた。エアコンがあったかどうか忘れてしまったが、建物の中は涼しかった。
考古学博物館の入り口
ラテニウム考古学博物館ができるまで
Lateniumの全体図 
 ヨーロッパでは1857年の冬季に大旱魃がおき、スイス・ヌーシャテル湖北岸のラ・テーヌ村でも水位が下がり、湖底があらわになって木杭列が出現した。他にも鉄製の武器や装飾品が多数発見され大騒ぎになった。その後、さらなる発掘と研究が行われ、1952年にそれらの遺物を収蔵するために、ヌーシャテル県立美術館に別館が建てられた。1960年代に入ると、ジュラ山脈からの水路工事や国道5号線の工事が行われ、またもや無数の考古学的発見があった。そこで1979年から新しい考古博物館の設立へ向けての動きが始まり、2001年にスイス最大の考古博物館ラテニウムが完成した。2011年にはスイス(56ヶ所)、ドイツ(18ヶ所)、オーストリア(5ヶ所)、フランス(11ヶ所)、イタリア(5ヶ所)、スロヴェニア(2ヶ所)にまたがる「アルプス地域の先史時代湖上生活跡群」が世界遺産として認定された。それ以来、ラテニウムはヨーロッパ大陸の古代史研究の中心となって各国にネットワーク網を広げている。

コンセプトは「知識と夢」
子供たちの考古学的?遊び場
大きな池でも遺跡の保存
 スイス・フランス国境にまたがるジュラ(Jura)山脈の南山麓にあるラテニウム考古学博物館と考古学公園は、ヌーシャテル湖の水際にある。公園は無料で、一年中開放されている。公園には復元家屋やマンモスの滑り台があり、子供たちの遊び場になっているし、大人は広大な敷地を自由に散策できる。しかし、この日の暑さでは散策はしたくなく、日本の遺跡の復元家屋と同じようだと思いながら、復元家屋の写真を撮るだけにした。

 考古学博物館の常設展示は、ゆるやかなスロープを歩きながら、現代から過去に遡っていく形式をとっている。建物の階数は2階半ぐらいだと感じたが、もちろん急ぎの人用に階段もエレベーターもあった。行きは順路どおりに進んだが、帰りは直帰用の階段を降りた。
スロープと階段
①はじめに
地中海から北海へかけて(ヨーロッパとは書いていない、古代にはヨーロッパという概念はなかった!)考古学的視点からみた人類、時代、環境について。
水中での発掘、保存の仕方などを実際に再現している。
発掘の様子を水中保存


②ルネサンスと中世:A.D.1600~A.D.476
1011年に建てられたNeuenburger城の模型や城壁の石材。聖人像など。  

③スイスの古代ローマ:A.D.476~1B.C. 
スイスで一番美しいといわれるローマの宮殿 The Colombier villaの出土品。

④5000年前の船:400B.C.~4400B.C.
古代ローマの船や湖上生活者の使った丸木船の展示。



⑤鉄器時代ラ・テーヌ文化 : 1B.C.~800B.C.
ラ・テーヌ文化とは、発見場所であるラテニウムのあるラ・テーヌ村から名前が付けられたヨーロッパを代表する鉄器時代文化である。このラ・テーヌ文化は、青銅器時代から鉄器時代初期(1200B.C.~500B.C.)にオーストリア南部に興ったハルシュタット文化の流れを受け継いでいる。その文化は中央アジアからやってきたインドヨーロッパ語族ケルト諸派民族がもたらしたもので、馬と車輪付き馬車を中央ヨーロッパに拡めた。ハルシュタット文化はギリシャやエトルリア(古代ローマに滅ぼされた文化)の影響を受けて、ラ・テーヌ文化(500B.C.~A.D.200)へと発展した。ヨーロッパ大陸のケルト鉄器文明といわれているが、近年になってケルトとはまた別ものという説もでてきている。

⑥湖上生活者:800B.C.~5500B.C.
青銅器時代から新石器時代まで。スイスと聞いて思い浮かべる古代の湖上生活者の様子が展示されている。湖上集落の模型、青銅器でできたたくさんの釣り針、石鏃、網かご、琥珀の玉などの出土品。その中でも復元された蓑笠は、日本のものかと見紛うばかりだ。ここの展示は一番時間をかけて見て回った。







⑦中石器時代から前期旧石器時代の狩猟者たち:3500B.C.~13,000B.C.
狩猟採集の人々の暮らしを展示。


⑧氷河時代のスイス:13,000B.C.~40,000B.C.
凍った寒さを感じる展示だった。

⑨中期旧石器時代 Great Bear Country : 40,000B.C.~100,000B.C.
なぜか大グマの世界だったらしい。いろいろな種類の動物の骨が展示されていた。Cotencher洞窟で見つかった人類の骨もあった。

 なだらかなスロープを上りながら古代へ古代へと歩いて行く、楽しい旅だった。

 帰りにミュジアムショップに寄って、ガイドブックともう一冊本を買ったが、残念なことに英語版はなかった。フランス語かドイツ語、ドイツ語なら解読できる娘がいるのでドイツ語にしたが、私には写真しか分からない。2013年当時、ウェブサイトもスイス公用語であるフランス語・ドイツ語・イタリア語でしか載っていなかったが、2014年から英語も加わった。それで少しは理解でき、整理がついたので、このブログを書くこととした。www.latenium.ch