2014年3月20日木曜日

「北方のバラ」チェンマイに咲いたランナー文化 No.2

ランナー王国 


  ハリプンチャイ王国を興したチャマディヴィ女王の時代から500〜600年ほど経った後、チェンライ王国のマンラーイ王がハリプンチャイを征服した。しかし、ハリプンチャイ王国のかっての都ランプーンが洪水で流されたので、マンラーイ王はウイアンクムカムに都を作ったが、さらに大きな都を作るべく、現在のチェンマイに堀を廻らした環濠都市を建設した。1296年のことである。こうして誕生したランナー王国は、15世紀から16世紀にかけて黄金期を迎える。名君主が続き、官僚組織が整い、国は繁栄し、仏教にもとづく文化が花開いた。1477年には仏教会議サンガヤナがチェンマイで開かれ、インドやスリランカからも高僧が集まったという。

ウイアンクムカム遺跡
16世紀に入るとランナーの国力は衰え、18世紀までビルマの占領下に置かれることになったが、ビルマの支配は緩やかなもので、統治者のトップは象徴的なランナー王族、次がビルマ人の実際の統治者とビルマ軍司令官という具合であった。いつの時代にあってもチェンマイは国際的な町であり、近隣諸国から商人や僧侶が頻繁に行き来していた。1587年にはビルマのペグーからロンドンの商人ラルフ・フィンチがヨーロッパ人として初めてたどり着き、チェンマイの黄金時代の名残の様子を記している。1613年には東インド会社のトーマス・サミュエルが商売の下見にやってきたが、上手く行かなかったようだ。

  ランナー王国が建国した13世紀には、チェンマイ南東300kmで小タイ族によるスコータイ王国が成立していた。スコータイ王国は15世紀まで続いたが、14世紀に台頭してきたアユタヤ王国に併合された。アユタヤの最盛期は16〜17世紀で、オランダとの交易が行われ、山田長政などの浪人が活躍したのもその頃である。

  1767年、ビルマはアユタヤ王国を襲った。アユタヤのタクシン王と将軍(現在に続くチャクリ王朝の始祖)はランナー王と手を結び、ビルマの掃討に乗り出した。その結果、1775年にランナー王国の都チェンマイはビルマから解放されたが、ビルマの侵略は続いた。その間にアユタヤ王国ではクーデターが起きる。将軍がタクシン王を廃位し、現在に続くチャクリ王朝の始祖としてサイアム王国を確立したのだった。一方、ランナー王国はビルマの侵略を受ける度にサイアム王国に援軍を仰ぐ形になり、次第に属国化していった。ビルマはアユタヤの都を徹底的に破壊したので、チャクリ王朝は都をトンブリへ、さらにバンコクに遷都した。

  19世紀になると、ヨーロッパ列強の東南アジア進出は激しくなった。英国はビルマを植民地としたのち、北部サイアム、さらには中国雲南へも触手を伸ばし、鉄道ルートの検討もしたが地形的に無理であった。結局、北部サイアムとの交易は、南からはチャオプラヤ川、西からはサルウィン川など河川を使い、大量のティーク材をランナーから買い取った。このような国際化が進む一方、サイアム中央政府の巧妙な支配によってランナー王家の形骸化は進み、ランナー王国はサイアムの2つのモントン(州)に分けられた。1939年、ランナー王カオノワラットが亡くなるとランナー王制は廃止され、名実ともにサイアム王国に組み入れられた。


現在のチェンマイ(チェンマイはランナー語で「新しい町」という意味)

タイ王国第二の都市チェンマイの旧市街は堀で囲まれている。多くの寺院が点在し、早朝には黄色い衣を着た僧侶の托鉢する姿が見られ、静かな朝の始まりに観光客は魅了される。近年、旧市街にも「タマリンドヴィレッジ」などブティックホテルができ、チェンマイ近郊の工房で作られた木彫り、陶器、絹や木綿製品、銀器を売る洒落た雑貨店が立ち並んでいる。
タマリンドヴィレッジ
環濠の外には市街地が広がり、大きなホテル、レストラン、ナイトバザールストリートは観光客でいつも賑わっている。その賑わいはドイ・ステープの山裾まで広がりをみせ、楽しみは尽きない町となっている。










  バンコクからチェンマイに行くと、建築物、仏像様式の違いが目につき、南方(バンコク)との文化の違いがはっきりと分かる。バンコクで販売されているタイの工芸品はチェンマイから運ばれたものであり、タイのスパ(エステ)は薬草の宝庫チェンマイがオリジンである。ランナー文化とその伝統はタイの文化をリードするものであり、タイ文化はランナー文化であると言っても過言ではないとおもう。バンコクのエメラルド寺院に安置されている「プラ・ケーオ」エメラルド仏は、もともとチェンマイにあったものだとコン・ムアン(ランナー人)は言う。
  チェンマイに居ると、長い歴史に育まれたランナー文化の中に自分が存在することに気づく。京都で日本文化をおもうのと同じなのだろうか。スコータイもアユタヤも今は遺跡となって残っているのみだが、“チェンマイ”ランナーの都ではランナーの人々が伝統文化を守りつつ、今を生きている。

毎年2月に行われるチェンマイフラワーフェスティバル

参考文献:"A Brief History of LAN NA"  Hans Penth
                    "History of LAN NA"  Sarassawadee Ongsakul
                    "The Chiangmai Chronicle"  Wyatt/Aroonrut
                    "Lanna-Thailand's Northern Kingdom"  Michael Freeman

参考Website:  http://www.thaiembassy.jp/thailand/j-history.htm
                        http://www.thailandtravel.or.jp

写真の一部はタイ国政府観光庁のウェブサイトより

2014年3月15日土曜日

「北方のバラ」チェンマイに咲いたランナー文化 No.1

ランナー王国とその文化について


チェンマイのバラ

 タイ王国の「北方のバラ」と称えられる美しい古都チェンマイは、13世紀にチェンライ王国のマンラーイ王が作ったランナー王国の都である。そこから同王国の歴史が始まったのだが、その前に、マンラーイは、その地にあったハリプンチャイ王国を征服しなければならなかった。

タイ王国の北部山岳地帯

  タイ民族は中国の最南部雲南より徐々に南下してきた民族である。8世紀タイ民族の一つタイユアン族はチャンセーン(タイのラオス国境の町)に国を作ったが、13世紀、モンゴル帝国による雲南遠征の脅威により、さらに南下してチェンライ王国を作った。国が大きくなるにつれ、チェンライは防備に不向きになったので、時の国王マンラーイは、さらに南200kmほどの地点、ランプーンを都として栄えていたモン族のハリプンチャイ王国に注目し、策略を用いてハリプンチャイ王国を滅ぼしたのだった。

  
今回はまず、このハリプンチャイ王国について記してみたい。

ハリプンチャイ王国


  タイの中南部ロプブリーには、6世紀から11世紀にかけてモン族の国ドヴァーラヴァティー王国が栄えていた。モン族は4世紀頃に東南アジアに到達していた民族で、ドヴァーラヴァティー王国を作り、インドのアショカ王より伝わった上座部仏教を受け入れ、信仰していた。当時、ドヴァーラヴァティー王国(曼荼羅的な支配形態の国であった)の勢力は、タイの北部から東北部にまで及んでいたという。(ドヴァーラヴァティーは仏教美術の一様式としても有名である)




  ドヴァーラヴァティーの僧侶は、タイ北部へチャオプラヤ川から支流ピン川を遡って布教活動を行い、ランプーンの町を作った。そして僧侶たちは政治的な統治者が必要になり、故郷のドヴァーラヴァティー王国に相談した。するとドヴァーラヴァティー王国は、支配下にあったラヴォー国の姫を大勢の家臣や僧侶と共にランプーンに遣わした。姫は女王となってハリプンチャイ王国の礎を築いたと云われている。
  女王の名前はチャマディヴィと言い、絶世の美女で、勇気があった。現在、チャマディヴィ女王の銅像がランプーンの町中に堂々とした姿で立っており、今でも市民の崇敬の的になっている。ランプーンのワット・プラタート・ハリプンチャイ寺院は女王の宮殿跡に建てられ、タイ王室が参拝する大変格式の高い寺院である。

ワット・プラタート・ハリプンチャイ


チャマディヴィ女王の伝説


チャマディヴィ女王像

  18世紀のランナー王国の哲学者クライスリ・ニマンへミンは、ハリプンチャイ王国の神話や伝説そして歴史をまとめているが、チャマディヴィ女王について以下のように書いている。
  チャマディヴィは幼い頃、仏像の前に置かれた灯明を跨いだ罰として、体臭のきつい人間になってしまった。その悪臭はひどいもので、20km先まで臭ったという。しかし、モン族特有の色白美人チャマディヴィは、野蛮な原住民のラワ族長を魅惑し、彼はチャマディヴィに求婚を迫った。困ったチャマディヴィは一計を案じた。東南アジアでは頭部は神聖で犯さざれぬものであるので(タイでは子どもの頭をなでることは厳禁)、チャマディヴィは自分の下着を縫い込んだ繻子の豪華な帽子を作り、その族長ヴィランガに贈った。喜んだヴィランガがそれを被った途端、彼の精神力は萎え、自分の投げた槍に当たって死んでしまったという。
  このようにチャマディヴィは暴力には知略で立ち向かい、未開の森林を整備し、狩猟採集から稲作農耕へ、そして仏教を広めた名君主であった。(つづく)


ロイクラトーン祭り
ランナー時代、ランプーンに住むモン族は、故郷である下流ロップブリーのモン族の無事を祈り
灯籠を流したのを記念に始まった祭りがロイクラトーンと云われている。最近は
ロケット花火が盛んに打ち上げられ、幻想的に夜空を彩る。     

                         

2014年3月5日水曜日

ランナー王国を復興?

タイ北部が分離独立?=陸軍、タクシン派を告発

 【バンコク時事】タイ陸軍は3日、タクシン元首相支持派の一部組織が刑法に違反し、タイ北部の分離独立を唱える活動を行ったとして、組織幹部を警察に告発した。
 告発されたのは、インラック首相の地元である北部チェンマイ県のタクシン派組織「ラック・チェンマイ51」幹部ペチャラワット氏。「ソー・ポー・ポー・ラーンナー」の名称を使って北部の分離独立を訴える横断幕を掲げるなどしたとされる。

 ラーンナーは13世紀末から19世紀末にかけてタイ北部に存在した王国の名前で、「ソー・ポー・ポー・ラーンナー」はタイ語で「ラーンナー人民民主共和国」の略語を意味する。インラック首相の辞任を求める反政府運動が続く首都バンコクや南部に対抗した動きとみられる。(2014/03/03-20:23)

 タイ王国で分離独立を騒いでいるのは、南部に住むイスラム教徒(タイ王国では仏教徒95%、イスラム教徒3.5%ほど)だろうと思っていたら、北部だという時事通信の記事や、BBC Newsを見て驚いた。インラック首相の地元はチェンマイだからそれもありなん。インラック首相の兄タクシン元首相は現王制を廃して、自分が王様になろうとしていると聞いたことがある。プミポーン現国王が王位につく以前は、不自然な出来事が王室内に度々起こっていたからありうる話であるが、それにしても不遜なことだと憤慨していた。

 「北方のバラ」と称されるチェンマイはバンコクの北約700kmにあり、バンコクから飛行機で1時間10分、高速道路で8〜12時間、タイ国鉄では12〜15時間かかる。チェンマイからバンコクに行く途中にあるスコータイはジャングルの中から発見された遺跡であり、スコータイ王国はアユタヤによって吸収され完全に消滅した。アユタヤ王国はビルマに征服され、荒廃したが、都をトンブリに移したサイアム王国に引き継がれた。

 ランナー研究者ハンス・ペン(Hans Penth)は 、"The Brief History of Lan Na"という著書のはじめに「北部タイに興味のある人々にランナーの簡単な歴史を伝えたいと思うが、研究が始まったばかりであり、不明な点や空白の部分もある。しかし、過去が現在にどう繋がっているか、現在が過去にどう関わっているかを知って欲しいと思う」と記している。20年前の本だが、ランナーの歴史を簡潔にまとめた読みやすいものである。過去と現在との関わりは断ち切れるものではない。だから今回のようなランナー独立運動「ソー・ポー・ポー・ラーンナー」が起こったとみてよい。

 13世紀に興った「ランナー王国」はチェンマイを中心とした都市国家の集まりであった。その広さはタイ北部、中国雲南省最南端シプソンパンナーそして、ラオスやミャンマー(ビルマ)との国境付近までおよんでいた。ランナーはビルマの支配下にあってもその文化伝統を守り続けた。1939年にランナー王カオノワラットの崩御後は王位継承はなされなくなり、ランナー王国はバンコク政府に吸収され、その歴史を閉じた。タイの歴史を読むと、スコータイ、アユタヤ、トンブリ、ラッタナコシーン(チャクリ)王朝と単線的な国史をつくっており、ランナー王国のあったことは無視している。それに、バンコク中央政府は、ランナー(チェンマイ地方)の言葉や文化を教育することを禁じている。  (つづく)