2013年2月21日木曜日

箸墓古墳と纒向遺跡


箸墓古墳
箸墓古墳で現地調査 土器など確認 NHKニュース

 2013年2月20日、箸墓古墳の調査が行なわれ話題になっています。箸墓古墳はヤマトトトヒモモソヒメノミコトの墓だとして宮内庁の管理下に置かれており、調査発掘は御法度、調査が許可されたことは画期的なことです。「卑弥呼のいた場所は近畿か九州か?」箸墓古墳は卑弥呼の墓とも考えられ、近接する纒向遺跡で発見された掘立柱建物は卑弥呼の宮殿跡ではないかと調査が進められています。

2009年11月箸墓古墳


纒向遺跡ってどんな遺跡?|桜井市纒向学研究センター 
 2009年11月、纒向遺跡現地説明会があるというので、大阪に行った帰り滑り込みセーフで説明会に参加しました。この遺跡では、日本全国の他地域から運ばれた土器がたくさん見つかったという話が一番記憶に残っています。帰り際に交通整理をしているおじさんに「ハシハカ古墳はどっちの方向?」と訊くと、エーと怪訝な顔をして「ハシバカか!」土地の人の発音は違いました。

2009年11月現地説明会




2013年2月16日土曜日

会津の絵ろうそく


「什の掟て」

     一、      年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ。
二、      虚言をいってはなりませぬ。
   三、      卑怯な振舞いをしてはなりませぬ。
   四、      弱いものをいじめてはなりませぬ。
  五、      戸外で物を食べてはなりませぬ。
       六、      戸外で女の人と言葉を交えてはなりませぬ。
 七、      ならぬことはならぬものです。

 会津若松駅前には、「ならぬことは、ならぬものです」という大看板が立っています。
会津藩には「什」という子弟を教育する組織があり、そこで教えられた訓戒で、今でも
会津の人々の大切な教えとなっています。

鶴ヶ城
 2006年と2009年に会津に出かけて以来、すっかり会津贔屓になった私は、今年のNHK
大河ドラマ『八重の桜』を毎回楽しみに見ています。そもそも『山川健次郎伝ー白虎隊士
から帝大総長へ』(星亮一著、平凡社)を読んだのがきっかけで、私はどうしても会津に行きたくなり、2006年に新撰組と幕末史に詳しい友人と二人で出かけました。     
 当時、鶴ヶ城を案内してくれたボランティア女性ガイド大塚さんの説明は、今思い出しても胸が震えるような迫力のあるものでした。長州兵に犯された少女は「敵の子だ」と
生まれた子を殺害した、薩長軍の大砲の轟音の中での生活の話など実際に肌で知っていた
人々から直接聞いたことを語ってくれました。その語り口は淡々としたもので、いささかの誇張や怒りを交えてのものではなかったことが忘れられません。大塚さんに「何処から来ましたか」と聞かれ、和歌山が出身地である私は、紀州がさっさと薩長側についたのを思い出し、「西の方から」と逃げると、彼女は「みなさんそう答えられますね」と笑っていました。                                   


 会津若松市の奥座敷東山温泉の入り口に「会津武家屋敷」という屋外博物館があります。『八重の桜』に登場する会津藩家老西郷頼母の屋敷が復元されていました。閉館間際に入館したこともあり、西郷頼母の母、妻、娘たちが自刃したありさまを薄暗がりで見た時は、身の毛が弥立ちました。                          
      戊辰戦争は日本の内戦civil warであり、会津藩が味わった悲惨さ、無念さは、会津に行かなければ理解できません。幕末の流血の上に現在の日本があることを私たちはしっかり認識すべきだと、2006年秋の旅で教わりました。                   

 2009年の会津への旅は母のお供で、母方のルーツを探る旅でした。直江というのが祖母の嫁入り前の名前なので、母は自分が直江兼続の子孫だと信じていました。兼続には子供がいなかったので、「そんなわけないわよ」と私は思っていましたが。会津経由で米沢なら結構と、プランを立てました。2006年の時に、会津に再び来られるならこの宿と決めていた「渋川問屋」を、福島の友人に頼んで予約してもらいました。大問屋の蔵を改造したもので、大正ロマンあふれる極上の宿でした。友人のおかげでご亭主自ら接待して下さったことは忘れられません。現在、福島の友人は、地震と原発事故で苦労されています。  

渋川問屋
 「渋川問屋」は町の真ん中の七日町にあり。味噌田楽で有名な「満田屋」や会津絵ろうそくの店「ほしばん絵ろうそく」も近くにあります。「江戸の灯りは会津から」と江戸時代に言われたほどで、漆の実から採る会津の漆蝋は評判が高く、江戸で使われたろうそくの7割を占めていたそうです。会津の絵ろうそくは、主に武家や寺院で使われていました。

 四季折々の花が描かれた絵ろうそくは、雪深い会津では冬に花を仏壇に供えることができないので、その代わりに供えられていたものだと、2006年に鶴ヶ城ガイドの大塚さんから聞いていました。それ以来、会津の人々は剛毅だけではなく、皆やさしいこころの持ち主なのだと思っています。                            
会津絵ロウソク祭り
 会津若松駅前に堂々と掲げられている「ならぬことはならぬものです」の訓戒を、私たちは胆に命じるべきです。原子力発電所はあってはならぬものです。先生やコーチが子供に暴力をふるう、柔道を教える人が暴力 • 暴言を用いるなど、絶対にならぬものです。「ならぬものです」の教えは、人間の尊厳を守り、品位を高めるものだと思います。   ロンドンオリンピックの柔道で、金メダルを取った選手に対する監督の態度と表情をテレビで見て以来、私の胸のつかえとなっていました。やはり納得のできないことがあったのです。                                    
                                  
磐梯山
大内宿  


2013年2月9日土曜日

パザルジクの座像(ウィーン自然史博物館)


 今回、ウィーン自然史博物館では、ここの名物であるマリア • テレジアの宝石の花束や巨大トパーズも見て、恐竜たちにも会いましたが、とくに旧石器時代と新石器時代の遺物を丁寧に見て回りました。
 この博物館の売りの一つは、何と言っても「ヴィーレンドルフのビーナス」なので、自然とそれに似たものに目がいきました。踊る巫女“ダンシングクイーン”に次いで注目したのは、新石器時代の「パザルジクの座像」です。


「パザルジクの座像」は、1870年代頃にハプスブルグ家のコレクションに加わり、自然史博物館のオープンから3年経った1892年に、他の小さい粘土の像とともに同博物館に展示されるようになりました。詳しい発掘の過程などは不明ですが、ブルガリア南部ポロブディフ州中部の都市パザルジク付近の鉄道工事現場に新石器時代遺跡があり、そこで発見されたということです。



 この像の下半身は中空で、 手を膝の上に置き、丸いスツールに座っている状態です。鼻の孔、口、下半身の穴などは、粘土が乾く前に細い棒で刺して開けられています。身体には入れ墨かボディペインティングをしているような模様が、ひっかいて付けられています。
 南ヨーロッパから出土している同じような像と比べることで、およそ6500年前頃に作られた物と考えられています。新石器時代中期の座像は、まずブルガリアで作られ、それから中央ヨーロッパに広がったようです。6500年前のこのような像がどういう意味を持つのか、解釈するのは難しいですが、研究者たちはこの像を女神または神聖なシンボルと見ています。恐らく、一番古いデメテル(ギリシャ神話の豊穣神)の像、母なる大地の像なのかもしれません。参考:NHMTOP100

チャタル •フユックの地母神 
穀物の栽培を人間に教えた神、豊穣の神であるデメテルの原型と考えられるパザルジクの女神像は、トルコのチャタル • フユックの地母神やエフェソスの女神アルテミス、それに古事記に出て来るオオゲツヒメを思い起こさせます。どの時代においても、地球人の考えることは、みんな同じだというおもいが深まりました。

 自然史博物館では石器や土器の写真をたくさん撮りましたが、その一部です。





2013年2月5日火曜日

ダンシングクイーン(ウィーン自然史博物館)


 ウィーンには数多くの美術館や博物館がありますが、マリア • テレジア広場に建つ「美術史博物館」と「自然史博物館」は双璧を成す施設です。ヨーロッパの他の国にあるミュージアムと比べても、その規模と中味の濃さは群を抜いています。


ハプスブルグ家は、数百年をかけて自然史や美術史に関する貴重なコレクション蒐集に努めました。このコレクションを収蔵するために、19世紀に皇帝フランツ • ヨーゼフ1世が二つのミュージアムを向い合わせで建てさせました。宮殿のような瓜二つの建物に挟まれた広場には、コレクションを始めたマリア • テレジアの巨大な像があり、来訪者をあたたかく迎えているかのようです。



 この双子のミュージアムのひとつ「自然史博物館」は、地球の成り立ち、火山活動、恐竜の世界、人類の出現、鉱物資源、先史時代と、テーマ別に時代を追って遺物などを展示しています。国立博物館ですが、運営は民間に委託されているので、カフェやイベントなどが充実しているようです。

Statuette from Galgenberg
 自然史博物館の展示物で有名なのは、2万5000歳の「ヴィーレンドルフのビーナス」ですが、彼女より7000歳も年上の、3万2000年前の石像もありました。この石像も女性像です。片手を高く挙げて、もう片方の手は太ももにあて、まるでつま先立ちでピルエットをしながら踊っているように見えます。自然史博物館はウィーンの有名な踊り子に因んでFannyと名付けていますが、外国人の私はそんな人を知りません。スポットライトに照らされた石像を見ていると、ABBAの『Dancing Queen』が耳元に鳴り響く感覚を覚え、一緒に踊り出しそうになったので、私は密かにこの踊る石像を“ダンシングクイーン”と名付けました。

ヴィーレンドルフのビーナス
ダンシングクイーン
“ダンシングクイーン”は1988年、オーストリア北西部の町クレムスに近いガルゲンベルグの工事現場で発見されました。そこで最初に発見されたのは先史時代の人骨だったため、丹念な発掘調査が行なわれました。その結果、氷河期のキャンプファイアの跡が見つかりました。そして小さな石の破片などとともに、角セン岩で作られた体長わずか7.2cmの“ダンシングクイーン”が出てきたのです。2008年に南ドイツで象牙の小さな像が発見されるまでは、小像では世界最古を誇っていました。


 石像の踊っているような姿は、トランス状態のシャーマンと考えられていますが、日本風に言うなら「踊る巫女」でしょうか。

 
             
         *「自然史博物館TOP100」を参考にしました。